教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 1032回  いい授業を低いところから考えてみる

仮に名人と言われる先生の授業をいい授業の最高点とします。
あくまで「仮に」ですよ。(私は生涯 迷人)
実際の授業では、瞬間的に「いいなあ」と思えることがあります。
授業の底辺を考えてみます。


新任の先生でも体験されたことがあると思います。
授業一時間がいい授業でなくても、部分的にいい授業になることがあります。


ある問題提起したとき、子どもたちが強い関心を寄せて前のめりになった。
指導過程において、子どもたちの発言、質問が急に多くなった。
めったに発表しない子が挙手して発言した。
「そうだったのか」「なるほど」という子どもたちのつぶやきが聞こえてきた。
授業終了のチャイムがなっているのに「先生、もう少しやろうよ」という提案を受ける。
先生の説明に子どもたち全員が集中して聞いた。
先生が意図していないことに、思いがけず子どもたちが熱中した。


このような些細な事であっても「部分的にいい授業」なのです。
その積み重ねがいい授業につながっていきます。
そのためには、「いいなあ」「あれ、どうしたのかな」と子どもたちの反応の原因を探ります。
教材の提示がよかったのか。
発問、助言がよかったのか。
学習の流れ、転換したことがよかったのか。
その他いろいろあります。
それらのことをきちんと記録して指導の反省とします。


しかし、いい授業に達することはありません。
常に、「これでよかったのか」という反省が生まれるからです。


どのような授業であっても、部分的に素晴らしい授業になっていることがあります。
その判定はだれがするのですか。
子どもたちです。
子どもたちの目が輝きです。
子どもたちが紅潮している時です。
教室の空気が一瞬でも張り詰めたものになるときです。
学びあっているなかで、温かい雰囲気が漂う時です。


授業の終了のチャイムがなります。
子どもたちは遊びたくて腰を浮かせます。
終わったらすぐに教室を出ていきます。
それがその時の一時間の子どもたちの授業判定です。
がっくり ちょっぴりさみしく 大いに悔しい瞬間です。
逆に、授業開始の時、すばやく入室する子どもたち。
机上に次時の準備ができている時。
子どもたちがこれから始まる学習に期待している時ですね。
そんな時、がんばらなくてはと気合が入ります。(気合だけでも)


子どもたちにとって、どのような学習指導がわかりやすいのか。
どのように学び方を指導するのか。
緊張と和やかさがある学習環境とは。
すべては、子どもの事実を記録することから生まれます。
私は、教室日録を続けました。
実践記録ですね。


とにかく、書いて残す。
残して考える。
考えてさらなる実践をする。
その繰り返しが退職まで続きます。

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