教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 1024回 文学作品 私の読む姿勢 「やまなし」

教材としての文学作品は、多くの人々が作品の解釈をされています。
どれも熱心に追究されているものが多いです。
私は、敬服するばかりです。


その一方で、ひとつの疑問がうまれるのです。
文学作品についての研究が、どちらかというと作者の立場で研究されています。
作者の考え方、生き方、人生遍歴などから作品の解釈が行われています。
それは教材を研究する上で大切なことです。


私は、文学作品に接するとき、決して作者の立場から入りません。
予備知識なしに作品に没入します。
私が教材研究をする時も同じです。
まずは、作者抜きの立場で読み深めます。
それは、稚拙な読みであることが多いですが、最初はそれでいいと思っています。


読み進めているうちに、作品の背景が気になってきます。
作品を深めていくうちに、その奥に作者の生きざまや悩みが見えてきます。
そこで、作者の生い立ちを調べたくなるのです。
新見南吉「ごんぎつね」を読み進めていくうちに、どうしても作者の生い立ちが気になりだしました。
彼が代理教員をしているときに書いた作品です。
私は、彼の生まれ育った場所に出かけたものです。


この作品はこう読むべきであると言われると頭を傾げます。
私たち大人が小説を読むとき、作者の枠組みのなかで読みません。
読者の感じたままで作品に接します。


小学校6年の国語教材「やまなし」は文学教材としては有名です。
多くの先生がそれぞれの立場で研究されておられます。
宮沢賢治の仏教観、無常観から作品にアプローチする場合。
作品が書かれた背景をもとにしたアプローチ。
色を中心として情景描写を理解していく場合。
5月の情景と12月の情景を分析的に比較して読み取る場合。


私もそれなりにその先生の作品解釈を読ませていただきました。
分析の方法でもって作品を理解されています。
指導者の教材解釈は、ある意味では個人の人生観、哲学観にゆだねられているところがあります。


「やまなし」の作品、谷川の底でかにたちと一緒に自分を沈めます
そして、谷川の底にいるカニと同じ視点にたって見えるものを感じ取っていきます。
私にとっても子どもたちにとっても、水の底から谷川を眺めるという体験はありません。
自分の分身を谷川の底に飛ばしてみます。
そこから見える景色を楽しむことから、私と子どもたちの物語は始まります。


導入として子どもたちに尋ねます。
「このお話、明るい話、暗い話・・・どちらですか」
子どもたちは言います。
明るいと感じるところもあれば、暗いなあと思うところもあるよ。


読み手の感覚、どのように感じ取るかというところから始めます。
そして、「どの場面、言葉からそのように感じたのですか」
全文を読んだ感想としてそれぞれの思いを発表します。
「不思議な物語だね」と締めくくりながら
「この作品は、どこからながめていますか。」
「かにからのながめですね」
「谷川の上から見ていたのでは、この作品はまったくわからないのです。みんなもかにの目で、谷川の底に自分をしずめてみましょう」


それでは、もう一度、自分一人で読んでみましょう。
このようにして、「やまなし」の世界に身を入れていきます。

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