教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 1018回 先輩の実践に 自分の実践を重ねる

現場の先生が次のような話をしておられました。
・・・若い先生が、板書の仕方、発問の仕方、子どもへの言葉かけのあり方 ワークシート集など、方法に関する本を多く集められている。
それに比べて、年配の先生は、そのような方法に関する本をあまり見ておられないように思います。・・・・・


書店に行けば教育技術に関する本が多く占めています。
ハウツー教育ですね。
そこには、読者が興味を持つ、持たせるような書籍が並んでいます。


私の若い時は、教育技術に関するものに関心がありませんでした。
それよりも教育学、教科教育の本質論、教授学などの本に強く関心をもっていました。


学生時代に関心をもったのは教育学に関する古典でした。
私の書棚にも十冊以上の教育の古典書があります。
教育そのものが何かを求めてむさぼりました。
「教育論」ジョンロック 「新しい児童観」ビネー
「人間の教育」フレーベル 「一般教育学」ヘルバルト
「ワロン・ピアジェ教育論」 「教育的人間学」ウシンスキー
これを含め二十冊近く今も書棚にあります。
教育は国家づくりと関係があるので、今と比較すると違和感のあるものもあります。
しかし、人間をどう育てるかという視点で共通しています。


今、教育方法論には、技術的なものがあっても人間のにおいがしないように思います。
子どもという人間が、学校教育のなかで希薄になってきていることを実感しています。(現場の先生からの話を通して感じること)



若い先生が書物に技術を求めるのは良いと思います。
何から始めていいのか分からないときに、とにかく他人の実践を通して、授業や学級づくりを学ぶのは悪くありません。
問題は、ずうっと続くことです。
やがて、先輩の実践から少しずつ離れて、自分のオリジナルを求めます。


「どのように指導するのか」「どのように教えるのか」という課題が前提にあるかと思いますが、いきなり、考えもしないで参考書、ネット検索に入らないようにします。
それでは、子どもたちと同じです。
疑問 即 答えを求めるのでは、その間に先生の思考の迷いがありません。


教育はどこまでも迷うことです。
迷わなくて「これでいい」と思った瞬間、先生の教育は終わっています。(ベテラン領域に入ります)


教材を何回も読み直し、解釈して、ねらいと疑問を把握します。
そこから自分の方法が生まれます。
どんなに稚拙であっても先生自身の体内で生まれたものです。
そこに指導者の成長が始まります。


児童理解、まず子どもの事実を、先生の感性と直観でもって受け取ります。
他の先生の助言はそのあとのことです。
目の前の子どもの事実、その背景にあるものを捉えていきます。
そして、先生は、子どものことで悩みます。
どうしたらよいかわかりません。
これでいいのかと不安になります。
悩まれたらいいのです。
それが先生の宝物になります。


悩んだ結果、助言を求め、書籍を探し求めます。
仮説を立てて、迷い、悩むことが力になります。
他の先生の授業や子どもとの関わり方を観察します。
そこに自分の実践を重ねてみます。
その違いと共通点を探ります。

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