教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 974回 授業は、指導者の意思(気持ち)ではなく意志(意欲)

この教材を・・・わからせたい。
この教材で・・・気づかせたい。
この教材で・・・考えさせたい。
「させたい」という指導者の意思を明確にするのが授業者である。


それをしないで、子どもたちの学びに追従する授業になっている。
それがあたかも子ども中心であると思うことさえある。
子どもに寄り添って、学びをサポートしながら・・・
そこに、教材に対する指導者の意思が見えてこない。


学びの中心は子どもである。
しかし、授業の中心は先生である。
子どもたちに何を教え、どのように育てるかを意識して子どもに対座する。
強い覚悟が必要である。
このように言うと、先生中心の授業は古いという。
先生が中心になることがよくないなら、すべてをAIに任せてしまえばいい。
その時、先生は子どもの前から姿を消すことになるだろう。


総合的な学習の失敗は、まさにそこからきている。
子どもに任せて寄り添うことが学習だと考えた。
しかし、その背景には、指導者の強い意図がなければならない。
こうしたい こうすべきだ これだけは指導したい。
先生がたは、その強い意志をもたになかった。
子どもの学びの流れに任せることが学習だと思った。
先生は見守る人、あるいは、見ているだけの人になった。


授業は、指導者の意思ではなく意志である。
導者の強い指導の意思が根底になければならない。
そうすることで、子どもの指導に方向性が生まれる。
方向性とは、子どもに何を学ばせどのような考え方を育てるかということ。


子どもの興味関心に沿ってということと、子ども任せとは違う。
興味関心は、子どもの学びの玄関である。
玄関から入って、学問の奥深い所に導くのが授業である。

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