教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 91回 自由発言の暴走 発表形式による話し合いの育て方 

私は、新任のころから、授業を進めるにあたって、手を挙げて、指名を受けて、椅子を引いて立ち上がって発言することに疑問を持っていました。
挙手⇒指名⇒発言の場合、子ども同士の話し合いのつながりが切れます。
発表ならいいのですが、話し合いは時間をおきません。
話し手と聞き手がお互いに交代しあって話の内容を深めます。
ですから、発言の時に立つということすら、わたしには疑問を感じていました。
発表形式の授業、先生中心であればそれでもいいですが、少なくとも、話し合いは考え合うことだと考えると不自然な動きが多すぎます。


自由発言を取り入れて
自由に椅子に座ったまま自分の意見を友達と高理由します。
話し合いというよりは、「語り合う」「静かに語り合う子ども」を目指しました。


先生の許可を求める必要がなくなり、学級の雰囲気が和らいでくると、子どもたちは口々に自己主張するようになります。
雑談、笑い声、歓声もまじります学習が広がりすぎたり、脱線したりして、先生の思わぬ方向に進んでいくことがあります。
何よりも学級の空気、風が違ってきます。
そのなかで、能力に関係なく自分の思いを出せる子どもが少しずつ増えてきます。
ところが、子どもたちの軌道修正が難しくなってくると、先生は、元の学習の型に戻そうとします。耐えきれないからです。
指名、挙手発言のほうが統制がとれるからです。


ここが、集団としての授業が成立するかどうかの分岐点になります。
 一週間は我慢します。その期間に子どもたちを観察していますと、「それはちがうわ」「えっ、うそー」「なっとくや」「待って、言わせて」「おかしいでえ」
そのうちに、「みんな口々に言うからわからないよ」「ちゃんと聞こうよ」などの助言がでてきます。


話すという行為は、聞く人がいるということで成り立っています。
この当たり前のことに気づかせていきます。
自分の意見を聞いてもらうためには、友達の意見も聞かなくてはいけないという気づき。頭では最初からわかっているのですが、こうして、実際の体験の中でわかることが「本当にわかる」ということです。


子どもの指導の始めに言葉があってもよいのですが、できることならば、「やらせてみる」そこから「これではだめだ」という実感がわいてきたときこそ、先生の指導のチャンスですね。


この期間は、授業の進度がおくれがちになりますが、子どもたちの話し合い学習ができるようになってくると、取り戻せるようになります。
そのためには学習を網羅するよりも、話し合いに適した学習内容を導入します。
話し合いを育てることを目的とした教材選択と学習指導が必要になってきます。 1学期の2ヶ月はこのような方針で進めていきます。


さて、無統制の段階から、少しずつ、学習効率をあげるために、学習の秩序を保つようにします。
ここで大切なことは、先生の一方的な指導で話し合いのルールをつくるのではなく、子どもたちと相談しながら実行に移していきます。


挙手発言や起立発言も必要であることも改めて確認していきます・
そして、話し合い学習のときに最も必要なことは「発表の譲り合い そして 間合い」であることを子どもたちと確認していきます。
そこで、譲り合えるためのルールを子どもたちと決めていきます。
次回には、その具体的な方法、自由発言の指導についてお話しします。


譲り合い と 間の取り方が核になりますね。

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