教育随想 第665回 話合い活動の活発化 無統制の段階
どもたちが自分の考えを少しずつ、誰もが話せるようになると、学級の雰囲気は和らいでくる。
教室が学習の内容によっては、にぎやかな様相を見せる。
時には、雑談が少し多くなることもある。
笑い声、喚声のたぐいも起こってくる。
自分たちが自由に話せる、話してよいとなると緊張が解けてくる。
一つの課題や発問に対して、多くの自己主張が起こると、前に進まなくなることがある。
相違、対立の意見が自由に出されるようになるためである。
なかなか進まない授業になることもある。
授業の効率が悪いと思うことがある。
しかし、確かなのは、子ども一人一人の学習意欲が能力に関係なく高まっていることである。
この「能力に関係なく」が重要である。
学習集団への帰属意識が高まるためである。
私でもみんなと勉強ができる、話し合いに参加できるという喜びが表情のなかに
見い出すことができる。
さて、この時期は、話し合いを将来的に指導する上において、大切な時期になる。
あまりの自己主張に先生が悲鳴をあげる。
先生は、子どもたちの発言の活発化を望んでいる。
しかし、それが度をこえると(先生の勝手な基準において)、先生は我慢ならなくなる。
いわゆる、発表の抑制、統制に入る。
これとは別に、4月当初、自己主張の強い学級に出会う。
後半のような全員が主張しているわけではないか゜、多くの子どもたちが活発化していることがある。
これは、先生に認めてほしいのである。
先生に対するアピールである。
この場合もすぐに抑えてはならない。
「もっと静かにしなさい」と強い力で抑えると、子どもは期待はずれの気持ちになる。
アピールさせればいい。
さて、話を戻すと、子どもたちが無統制の段階に入ると、指導がしやすくなる。
意見を言いなさいと表面に出てこないものを指導するより容易である。
したがって、子どもたちが無統制の段階、意欲が表面化しだしたら、しばらく子どもに任せる。
そばで、微笑みをもって眺めるだけの余裕が必要になる。
ついつい、周囲の状況を気にして、「静かにしなさい」と水戸黄門の印籠を掲げる。
学習を妨害しているわけではない。
学習に意欲を持ち出したから、自己主張が目立ってきただけである。
一週間ほど黙ってみている。
これは勇気がいる。
まわりの先生の眼も気になる。
大概、校内における先生の指導は、周囲の眼を気にして行うことが多い。
まわりに調子を合わせるためである。
これは、仕方がないことではある。
でも、先生の本当の指導、実践というのは、ある時期に「山のごとく動じない」ことである
そのうちに、子どもたちの方から、これではだめだという気づきがでてくる。
「先生、これでは勉強にならないよ」と子どもの声。
それが次へのステップへのチャンスである。