教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 514回  用を足せば それで足りる

日本人独特なものとして、「心配りのきめ細かさ」があります。
日本のおもてなし、サービスにおいても生かされています。


レストランに入ります。
コップの水がなくなると、店の係の人が、水をつぎ足してくれます。
その時に「温かいお茶はいいてずか」と言われます。
水がなくなったので、コップに水を注ぐことで仕事が終わります。
その時に温かいお茶の勧めは心配りです。


学校社会ではどうでしょうか。
子どもたちの掃除が終わったとき、一人の子どもが机を前から横からながめて整えています。
友だちが掃除用具を片付けた後、もう一度、ていねいに整理している子がいます。
授業中に体調が悪くなった子どもを保健室に行かせることがあります。
付き添いの子どもがいたり、先生が一緒にいったりします。
しばらく、保健室に寝かせてくださいと保健の先生に言われます。
ここまでで、先生の用事は終わります。


しかし、このあと、休憩時間のたびに保健室を訪れます。
子どもと対話します。
そこまでしなくても・・・でも・・・。


勉強会に来られている先生の最近の話です。
その先生は、子どもたちに授業のなかで書かせた時、必ず、その日のうちに読んでコメントされるそうです。
だから、帰宅が遅くなることがあるようです。
まわりの先生から、そこまでしなくても、見たという印だけ入れておけばいいのではというアドバイスを受けたそうです。
でも、その先生は言われました。
「私が子どもたちに書かせたものだから、私がきちんと読んでコメントしたいのです」
これが、その先生の熱意であり、子どもたちに対する心配りのきめ細かさです。


朝、子どもの欠席連絡が電話や連絡帳を通して入ります。
先生は「わかりました」として受け取ります。
これで、用は足りています。
用を足せばそれで足りるという考え方です。
子どもが目の前にいないことが気になります。
放課後ではなく、昼頃にその子の自宅に電話することがあります。
「もう、熱が下がったようです。」「まだ、しんどくて寝ています」
保護者の言葉が返ってきます。
子どもが見えないから気になるのです。


「用を足せば足りる」のではなく、「用を足しても本当に足りているだろうか」という考え方もあります。


教育という仕事は、最低限、これだけすればいいということはありません。
相手が生きている子ども、人間だからです。
もちろん、手を抜くことはあります。
これくらいしておけばいいだろうと思うことはあります。
そこまで子どもと関わるのは面倒だと思うこともあります。


しかし、教育は「用を足せばそれで足りる」というものではないように思います。
どこまでやってもきりがないのが教育ではないでしょうか。

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