教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 39回  授業で 子どもと仲よくなる

授業で、子どもと仲良くなります。
「えっ、仲良くなるのは、子どもと遊んだり話しかけたりするからではないですか」という疑問が生まれます。


それだけでしたら、先生でなくても誰でもできることです。
先生は、授業を通して子どもたちを引き寄せなければなりません。
授業ほど、子どもたちを魅了するものはありません。


学習が楽しい、わかるという気持をもたせ、より学習意欲を膨らませていきます。子どもは、教材を通して文化の習得をしますが、先生は、教材を媒体として子どもと会話します。やさしい先生、楽しい先生、遊びが楽しい先生だけでは、子どもを癒すことはできても育てることはできません。


授業を核として学級経営を組み立てていかなければなりません。
学校の先生から授業を差し引いたら、あと、なにが残りますか。
生徒指導、給食指導、特別活動の指導、そして、休憩時間の遊びぐらいですね。


さて、一学期に授業で大切なことをお話します。
①学習の休眠をしている子を起こす。
 「どうせ、ぼくは勉強なんかできないわ」「頭が悪いもん」といって、すでに新学期から諦めている子どもを刺激します。刺激とは、学習に参加させるということです。
その子どもたちでも参加できるように授業の入り口のレベルをさげていきます。


②全員がその子なりにわかるということ。
「わかる」という場合、子どもたちによってそのわかり方は違ってきます。
授業の中で、子どもたちに「わかった人は手をあげてごらん」と、手を上げさせてから立たせます。そして、次のような質問をします。「あなたはどんなことがわかったのかな」とたずねて、子どもたちの答えを黒板に書いていきます。
「あれ、おかしいですね。みんな、わかったことが少しずつちがっているね」と話します。これは、子どもたちに「わかる」ということの難しさをアピールします。「わかった」と「わかったつもり」とは違うということに気づかせます。


③授業が立体的であるということ
授業が平面的に進行しているのをよく見かけます。
教材をいかに理解させていくかという視点しかありません。
この視点は大切ですが、それだけではつまらないものになります。
私が立体的というのは、「どんなことを理解させるか」ということより、「どのようにして理解させていくか」、内容よりも認識過程が、より大事であると言いたいのです。


「わかる」ことの上に「どのようにしてわかったか」という視点を加えます。
さらに、先生と子ども、子どもと子どもの間に論理や知識だけの交流だけでなく、情感の交流(微笑み、安心など)を意図的に仕組んでいきます。


学習内容に関することで笑える授業をつくることです
雰囲気が柔らかく、緊張とリラックスの波が押し寄せる授業です。
教材を真ん中において、先生と子ども、子どもと子どもが、学習について会話ができる雰囲気をつくるということです。先生から子どもへの一方的、形式的な授業ではありません。


そうすることで、先生と子どもの心的距離が小さくなってきます。「先生と勉強すると楽しいなあ」「勉強がちょっとだけ好きになってきたわ」などの気持を一人ひとりの子どものたちに持たせるのです。
もちろん、それができる時とそうでない時があります。一日に、一時間の学習においてできたかなということがあればいいですね。
授業なんて、失敗の連続です。
だから、楽しいです。
やりがいのあるものです。


わたしは、失敗といいましたが、本当は失敗はないのです。うまくいかなかった授業を振り返ると自分の反省材料をたくさんもらえますから、それを明日の授業のヒントとバネにしていけばいいです。

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