教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 314回 学級集団とは 名ばかりの集団

自治体で雨カッパの寄付を募ったところ、たいへん多くの人々からカッパが送られてきました。困っているときには、お互いに支え合おうという気持ちを強く感じました。その陰には、自治体の首長の献身的なリーダーシップがあります。


ここにきて、政治家(民のために体を張る人))と政治屋(選挙を意識して対面を繕う人)との差大きくが出始めています。
さらには、感染する恐れのある中で食料品やドラッグの店が休まず開かれて、店員の方が仕事をされています。もちろん、医療従事者は言うまでもありません。


そのようななかにあって、相変わらず、マスコミは警報サイレンのごとく、コロナ感染を感情的な空気を漂わせて放送しています。
ワイドショーに至っては、専門家ではない人のコメントが聞くに堪えないものになっています。(スポンサーへの忖度もあるから仕方がない面もあるのですが)


昨日のニュースで温かい言葉を耳にしました。
「誰もが未曽有の事件を前にして、手探りで実行していることが多いですが、対処が遅いという批判もありますが、それでも私達は、一つ一つに感謝の心を持ちたいと思います。」
「感謝」という言葉です。
口先だけではなく、実際に現場で頑張っておられる人々に対する感謝の念を忘れてはいけないと感じました。
集団が存在し、機能することです。
集団はお互いに支え合って生きるための大切な存在だと思います。


さて、前置きが長くなりましたが、学級という集団も同じです。
ただ、一緒に席を並べて勉強、給食、その他の活動を共にする集まりになってはいないでしょうか。
一人ひとりの生きる意欲を支え合う学級集団になっているでしょうか。
集団が一人ひとりの行動にはたらきかけて支え合い、励まし合い、時には競いあう場になるように先生は実践活動をする必要があります。


学級集団が目指す最初の目標は「安心できる集団」です。
学級にいることで、能力差や身体差に関係なく、それぞれの子どもの願いが少しでも実現できるようになれいいと考えていました。
それは理想だといわれそうですが、この実現方法は授業実践にあります。


4月当初、教科、教材を使って
(1)集団の中にあって、どの子も自分の力を発揮できる手段、方法を身に着け
   させる。
(2)どの子も集団の中から自分に必要なことを学びとる手段、方法を身につけ
   させる。
集団に働きかけて集団の学びに参加、貢献できるようにします。
集団、仲間の意見や行動から良いものを学び取れるようにします。


問題は、このことが失敗する主な原因は、先生の言動です。
子どもに強く押し付けるからです。
なかには、しかって、どなって、おこってという先生がおられます。
(叱ることが悪いのではありません。そのタイミングです)


強く押し付けても一応の形はできます。
4月末において、子どもたちが整然としている学級がありますが、6月ごろになるとほどけてきます。一年間の子どもの意識は向上しません。
先生によっては、「最初が大切だ。もう子どもが私の手の打ちにある」と豪語されていた先生がいましたが、一年間維持できませんでした。
ある学校の学校長が職員に最初の一週間、「黄金の一週間」と称して、詳細に指導事項のプリントを配布されていました。
私は、その学校の先生に質問しました。
「黄金の一週間のあとはどうするのですか。黄金ではなくなって灰色になるのですか」と質問したものです。


子どもたちは、ひたすら、先生の想いを忖度します。
それどころか、休憩時間、学校の外で、その代償を求めるようなことが起こりがちです。
担任が出張で一日、教室にいないと騒然となります。
つまり、面従腹背の子どもになるからです。
学級が集団として機能するように指導できたかどうかは、先生が出張したらわかります。無指導の指導ですね。
いや、出張にいかなくても、朝の職員朝集のあと、遅れて教室に入ったときの様子でわかりますね。
4月は騒然としていても、5月、6月の末ぐらいなると、自然に子どもたちが自分の活動をし始めます。学級という集団に節度が生まれるのもこの時期です。
学級の変化は6月の末から7月の上旬までの間に変化が目に見えるようになります。
これは授業実践において指導できるものです。

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