教育随想 265回 見て見ぬふり 見ぬふりして見る
「見て見ぬふりをする」
大人の社会でもこれが常識になっています。
自分に火の粉がふりかからないように必死に逃げます。
会社でも責任を問われないように、少しぐらいのことには目をつぶります。
子どもたちが悪いことをしていても、行儀が悪くても、見て見ぬ振りをすることが多くなっています。
家庭においても学校においてもこの考えがまかり通っています。
スーパーマーケットで遊ぶ子どもを見て見ぬふりをして平気で買い物をしている親。
そんな子どもたちを見て「元気なのは子どもの個性ですから」と言い訳をする親。
元気さも活動的なことも、決してその子だけのものではないので個性とは言いがたいです。
「見ぬふりして見る」
家庭でも学校でも大切だと思っています。
子どもは、成長するにつれて大人の干渉を拒否するようになります。自分の世界、価値観を形成する家庭としては自然な営みです。
親や先生は、見ぬふりができなくなっています。見つめる、見守ると 無関心で見ないの間 にあるのが「見ぬふりして見る」です。
直接見ていないけど、視界の中に入れています
この視界の中に入れることで、直接見えないところが肌で感じるようになります。
子どもを見るということは、子どもにとって見られているということですから、うっとうしく感じる子どももいることでしょう。
私たちが人に出会うとき、最初は目ではなく、印象、心で感じるものからその人が私たちの体に入ってきます。なんだか暗い、すっきりしている、輝いている、やさしそうだとかの印象ですね
それらの印象がどこからきているのか探るために、目や耳が動き始めます。
子どもに朝一番に出会ったときが大切です。
家庭では、下校や帰宅した時の子どもは、外の空気をそのまま持ち帰っています。
「あれ、暗いぞ」「「朝の元気がなくなっている」など、視野の中にいれます。
「どうしたの、元気ないね、何かあったのか」と訪ねると、子どもにとっては余計なお世話なのです。
親は子を見守るといわれますが、見守るとは、子どもとの距離をおいて見るということですね。
子どもの体に目がくっついてしまってはいないでしょうか。