教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 235回  些細な事実が「いい授業」につながる

だれもが「いい授業をしたい」という気持ちを持っています。
これは悪いことではなく、当然のことです。
授業をスタイルから入ることも大切です。
いい授業をしたいという気持ちが強いほど、授業者がどれだけ授業に打ち込んでいるか、そのバロメーターになります。


玉のようにどこも欠けたところがない授業を望むこともあるでしょう。
しかし、実際には、そのような授業はほど遠いものです。
それでも部分的にうまくいったということであれば、日常展開する授業の端々に見聞できます。


子どもたちが熱中する時間が長かった
本気で全員、話し合いに参加していた
先生の言葉に傾聴していた
めったに口を開かない子が本気で話に参加した
対立的な話し合いができた
対立から深めあうことが少しできた
授業のなかで子どもたちの質問が多かった
班学習で前のめりになって話し合いをしていた
独り勉強の時の表情がいつもよりも真剣であった 
終わりのチャイムがなっても終わろうとはしなかった などなど


たとえ、些細な事実であっても、偶然おきたことではなく授業者の意図にそっての展開であり、子どももそれに関心を寄せ、興味をもった授業であれば、それは「いい授業」ではないでしょうか。
逆に意図的ではなく偶然に子どもたちが乗り始めたこともあるはずです。
その時に、あとで、なぜ、意図しなかったのに子どもたちは集中したのだろうかを考えてみることも必要です。


つまるところ「いい授業」かどうかは子どもたちが判定してくれます。
子どもたちがうまく授業に乗ってくれたときは、たいてい「いい授業」です。


第二の判定者は、授業者自身です。
授業者は、たいてい自分の授業に対しては甘く、妥協的なものです。
私などは、その最たるものでした。
自分の授業を冷静に客観的に、分析的に眺めることは難しいですね。
若い先生には、「まずいのか」「「いいのか」の判定もはっきりしないものです。
そうかといって、授業者自身の反省が意味のないものではありません。
「やりっぱなし」がいけないです。「振り返る」ことです。
振り返ることが辛くても振り返る、省察する態度を養成することがとても大切なことだと思っています。


授業したあと、たとえ一行でもいいですから、自分の反省を入れる習慣を身につけることで、必ず「いい授業」への道を歩むことになります。
授業の質を変えていくのは、いつも子どもたちです。
子どもたちが私のいい加減さを修正していきます。
だから、子どもたちは指導者にとって先生なのです。

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