教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 190回 石を持ってくる子ども

庭いっぱいに花や野菜を育てています。
今年はキュウリとトマトの収穫が好調でした。
でも、トウモロコシの成長が去年に比べると思わしくありません。猛暑で花によっては疲れをだして元気がありません。
種をまいたけど、その成長がうまくいかないです。
逆に、ぐんぐん背丈をのばしている花もあります。


元気な花には、どうしてもよく目がいくようになります。
弱りだした花は、どこか遠ざけたい気持ちになることがあります。
同じ命でありながらいけないことはわかっているのですが、私の中に花を眺める目に平等性を欠いています。


これではいけないと思うので、元気な花は私よりも遠いところにおいています。
弱っている花は、できるだけ近くて目の届くところに置いています。
そして、できるだけ声をかけて他の花と同じように接するようにしています。


学級の子どもたちも同じことが言えます。
どの子も分け隔てなく見る、接することが大切なのはわかっていますが、必ずしも、うまくいったと言えないです。
明るく元気な子どもや向こうから話しかけてくる子どもには、自然に目がいくようになります。
反対に、おとなしく少し暗い子どもには、気にはかけているのですが、どこが遠目に見ていることがありました。


先生も人間だからと言えばいいわけになります。
自分の好みが全く出ていないとは言い切れませんね。
 


先生になって5年目の時でした。一日、無口な5年生の女の子がいました。
話しかけても相づちをうつだけでほとんど話そうとはしませんでした。
休憩時間には、いつも教室で一人でぼんやりとしていました。
周りの子どもたちも避けるようにしていました。
私は、何度も働きかけましたが反応が乏しかったです。
先生としてという意識が働くのですが、心のどこかで遠ざけていたように思います。


6月の終わり頃に、突然、彼女は、私の机の上に石をおきました。
「あ・げ・る」という一言を残して、自分の席に戻りました。
私は、どうして石を持ってきたのかわかりませんでした。
ただ、彼女は、その石をしばしば眺めていました。
私が、その石をどうするか見守っているようでした。


私は、石を自分の机の上におくことにしました。
帰る時に机のすみに片づけました。
次の日、その石は、少し目立つところに置かれていました。
おかしいなあ、確かに、片づけたはずなのに・・・。
その驚く様子を彼女はじっと見ていたことに気づきました。


その時、私は気づきました。
その石は彼女の分身なのだということです。
先生は、自分の分身としての石をどのようにするか、それを見ていたことになります。
私は、その日以来、小さな箱に入れて目立つ所におきました。


やがて、一学期の終わり頃、彼女が2つ目の石を持ってきました。
こうして石を通して、彼女との交流が始まりました。
私は、メモに石の印象を書いて彼女に手渡しました。
2学期以降、彼女との会話ができるようになりました。
話しかけると片言話すようになってきました。


私は、出会った時は、遠くに見ていた子どもでしたが、その情けなさに気づきました。


子どもは、言葉以外のすべてを使って訴えてくるということ。
子どもから小さなサインに気づくことの大切さを痛感しました。


子どもたちを平等に見守ることの難しさを感じていました。
うまくいかないことのほうが多かったでしょうね。


子どもたちは先生にいろいろなものを持ってきます。
花 人形 自分の大切にしているもの 野草 ペットの写真など
それらは、先生に対するメッセージを含んでいます。
机の上に大切に保管するようにします。
子どもたちの分身であり、願いですから。

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