教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想132回 厳しさは やさしさの裏返し

1学期・・育てる、入れる

「育てる」ということについてイメージを持ってください。


花を育てる。野菜を育てる。
いきなり花で咲きますか? いきなり野菜ができますか?
できませんね。
まず、土づくりです。子どもを取り巻く環境づくりです。
土に肥料を入れて花を育てる環境をつくります。
花を直接的に大きくすることはできません。
がんばれよという声はかけられても手で引き伸ばすことはできません。
あくまで間接的支援です。


やがて、茎が伸び、葉が繁ります。
ここで大切なことは、伸びが遅いからといって、茎を手を使って伸ばそうとすると、植物を引き抜いてしまうことになります。
それでは、何もしていないのかといえば、「水やり」「葉や茎の観察」「肥料の調節」「病気の発見」など、ひたすら苗をとりまく環境にアプローチします。
 水やりは土の状態と植物の様子を観察して水の量を加減します。
 茎や葉、毎日、観察しないとわかりません。
 ある日、気づいたら病気になっていたということになります。
 水と肥料の調節は難しいです。
 花がかわいいからといって、その愛情を肥料に込めすぎると、植物は枯れます。


育てることほど難しいものはありません。
未熟な私が未熟な子どもを育てるということ自体に無理があります。
育てようと思いながら、子どもを待てないで口だしすることも多かったです。
育てることは「待つ」ことだと言われますが、そんなに簡単なものではありません。
待つことは耐えることです。
当然、がまんの限界があるものです。
子どもへのいらいらが始まります。
さて、どこまで、子どもたちを注意深く観察して、指導を入れることにがまんできるでしょうか。


育てるというのは、間接的に働きかけて、じっと待ちます。
子どもの成り行きを待ちます。
子どもが自ら発芽するのを待ちます。


「入れる」・・・5月以降に学習、特に学び方、学習のしつけを子どもの成長の様子に合わせて入れます。


学習において、各教科の学び方、ノートの使い方を少しずつ入れます。
時間がかかります。反復しながスモールステップで入れていきます。
ですから、1学期は1年間の先生のエネルギーの60%を使います。
このことが2学期以降の子どもたちの姿に成果として具現化されます。
近所の庭の横を通ると、よく成長しているものとそうでない植物を見かけますが、育てた人の働きかけの賜物、結果ですね。


学び方にしても生活習慣にしても、子どもたちに入れるときは、スモールステップでゆっくりとていねいに実行します。
できないときは、最初から入れなおします。


2学期・・・「鍛える」「離れる」

「鍛える」学習を通してしっかりと鍛えます
学び方を高度化します。
子どもたちの自主性を最優先します。
難しい問題(学習だけでなく生活においても)を提示します。
子どもたちを追い込むこともあります。
一年間で最も厳しい先生になります。


鍛えるとどうしても厳しい先生という印象を子どもたちに与えます。
子どもたちに嫌われたくないという思いが、子どもに対して手加減することもあります。それではだめです。
厳しさは、子どもを一段階ステップさせるための先生の譲らない姿勢です。たいがいは、ここで先生のほうが挫折します。
厳しさとは、子ども一人一人の前に壁(課題、目標)をつくることです。
叱ることではありません。
授業において、問題をとことん考えさせ追及させる場面を設定します。
厳しさを乗り越えた子どもの姿があればいいです。


「離れる」
やがて、2学期の後半には、子どもたちから距離をおいて、学習も生活も任せることが多くなってきます。
 指導したら離します。
 自分で学べるか様子をみます。
 子どもに空気を吸わせたら、次に吐き出させます。
 学び方を指導したら、そのことを子どもに使わせます。
 


3学期・・・「見守る」「見直し」


 子どもたちの花を咲かせるときです。
 一年間の成果が子どもの姿に具体的に表れるときです。
 先生は、子どもたちを見守ります。
 そして、先生の実践を見直します。
 多少の修正が必要になってきます。
 先生の三学期の見直し(反省)が次の新年度のエネルギーになります。

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