教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随感随想 12回 小学校の先生 専門は何ですか?

先日、外国の医療ドラマを見ていると、二人の優秀な医師が話し合っています。
 その中で、若い優秀な医師が、相手のベテラン医師に対して「先生の専門は何ですか。神経外科ですか、それとも胸部外科ですか」と尋ねています。
すると、ベテラン医師は、諭すように若い医師に言います。
「君はどうして専門性を大切にするのだね。私は、患者を救うことだけが目的で医師をしている。命を救うことが私の専門なんだよ」


さて、小学校の世界でも同じことが言えます。
新卒で学校に勤めたとき、先輩の先生が自分の専門を言われます。
国語や算数・・などの専門を言われます。市内の理科部の会に出席すると、「私は植物が専門です」「私は、昆虫が専門です」「私は、天文が専門です」などなど。
子どもを育てるのに専門分野が必要なのか、疑問を感じていました。


 さすがに、私は、ここはどこの研究団体なのだろう。まるで大学の研究者の集まりのようだったことを覚えています。
 私は、二度とその会には出席しませんでした。


 ベテランと呼ばれる時期に入ると、「先生の専門は何ですか」と聞かれたら、「小学校です。特に専門はありません。」と答えるようにしています。
 私は、大学の頃は、理科教師をめざしてそこに専門性を見いだそうとしましたが、一年目に子どもたちと出会ってから、その専門性には意味がないことを覚りました。
 子どもの生きる意欲を膨らませて、笑顔にすることが先生の専門です。
 強いて言えば「子どもを救うこと、育てること、それが専門」」なのでしょうか。


 専門をもつことを否定していません。むしろ必要なことです。
 しかし、目の前の子どもたちが読むことが嫌いだといえば、自分で国語学を勉強するしかなかったです。理科では、子どもの情操を育てることはできません。基本は国語でした。
 その他の教科も、苦手な子ども、「先生、社会おもしろくないわ」と言われれば、自分で勉強するしかありませんでした。
 5年生の社会科の学習に工業があります。
 日本の工業に少しだけでもふれなければ、机上の勉強だけではだめだと思い、トヨタの博物館やトヨタ町を歩きました。肌で日本の技術、工業の町を体験しました。
六年生の歴史の古代の勉強をするための準備として、自分の学びとして、吉野ヶ里、奈良などに行きました。
 実際に遺跡の中に身をおくことで、人々のくらしや思いが伝わってくるものがありました。その中で、私は、子どもたちに何を伝えたらよいのか迷いました。
 「ごんぎつね」に出会うと、やはり、新見南吉という作者の生き方、住んでいた地域に引かれるものがありました。知多半島まで足を運びました。。


 夏休みは全国の博物館に目的を持って出かけました。
 その行動の動機は「子どもたちを元気にしたい」ということでした。
 それが私の専門性であったように思います。
 しかし、今、ふりかええると、私の勉強不足で子どもたちに迷惑をかけたという思いがよみがえってきます。


小学校には専門の教科にありません。
子どもを学び手にする教材研究力、その指導方法。
子どもを理解する力
子どもを導く力
子どもの結果に謙虚に反省する力
          があればいいと思っています。


 根本にあるのは、哲学であり、教育哲学です。
 さらに、心理学という側面も必要ですね。
 先生には、若いもベテランも関係ないのです。
 子どもにとっては、同じ先生です。
 子どもにとっては、私の先生です

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