教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

 教育随想 116回  緘黙の子ども 言葉を求めない


手のかからない子どもよりも手のかかる子どもの指導の方が、私自身を成長させてきたと思います。


先生は、手のかからない子ども、素直な子、勉強のできる子、元気な子などを求めがちですが、果たして、先生にとって本当に役立つことなのでしょうか。


医者が毎日、風邪などの比較的軽い患者を治療していたら、その医者の力量はのびていくでしょうか。やはり、治療困難な患者に出会うことで、そこに医者としての苦悩が生まれるはずです。


 新学期、先生方が新しい担任の名簿を見て口にされる言葉。
 「今年は楽勝だ、手間のかかる子どもがいないねえ」「ああ、あの子が入っている、どうしょうかな、困ったなあ」
そうではなくて、「おっ、今年は場面かん黙の子どもが入っている。また、がんばれそうだ」という気持ちを少しぐらい持たれてもいいように感じました。


今までの担任から見捨てられた子どもを担当することが多かった私にとって、苦しかったけど有り難かったと思えるようになりました。もちろん、それまでは、「どうして私が・・・」という気持ちもありました。
しかし、あとで考えると、その子の指導がたとえ、うまくいかなくてもそれなりの力を得ることができたと思います。


今までの経験、技術が使えない子どもに出会うことが多かったですが、その中でも、場面かん黙の女子に出会いました。
5年で担任を引き受けました。
家では話ができるのに、学校では、低学年のときからは教室で言葉を発することがほとんどありませんでした。
今までの担任も努力されていたのですが、ほとんど効果は見られませんでした。


授業中に指名して発言を求めても、おどおどして言葉がでませんでした。何かを言いたいような表情を見せるのですが、言葉になりませんでした。
勉強は得意ではなく、すべてに自信を失っているように思えました。周りの子どもたちは、「A子はしゃべらない子。変わった子」という思いで見ていました。


私は、正直、最初、戸惑いました。
心理学書をあさりましたが、それは、一般的なものでした。
個々の子どもにすぐに当てはめるわけにはいきません。
さらに、私の考え方として、参考書の知識が子どもに対する先入観を生じさせることを知っていましたので、まず、その子の事実と向き合うことにしました。


A子と接していくうちに、あることに気づきました。
今までの先生、周りの子どもたちの多くは、A子の言葉、話すことを求めていました。言葉でコミュニケーションを取ろうとしていました。


私は、言葉でのコミュニケーションをできるだけ控えて、アイコンタクトを中心に意思疎通をはかるようにしました。
彼女にとって、言葉を使うことが緊張を伴うようでしたので、とにかく、手を含めたアイコンタクトで彼女と接するようにしました。
これを通して、2ヶ月かかってゆっくりと近づくようにしました。
言葉を求めないように、彼女と意思疎通をはかることを目的としました。


半年たって、A子は、教室で「はい」という返事をするようになり、笑みも浮かべるようになりました。やがて、小さな声で私に向かって言葉を発するようになりました。その時に大切なことは、彼女に大きな声をだすことを要求しないことです。


私が彼女のそばに行って耳を傾けるようにしました。
これがとても大切なのです。
「先生が私のために近くまで来てくれる」という気持ちを持たせることが必要です。決して、彼女に無理をさせないようにします。


一年間の終わりの全校朝会の代表の言葉。全校生にたどたどしく語りかけるA子の姿がありました。
このことがA子の自信につながりました。
そして、6年生も担任を引き受けることになりました。
A子は私にとって、すばらしい教育の先生でした。

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