教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想1073回 良い子を基準にして 他の子も同じにする

教育は「いい子」を目指している。
いい子以外はすべて悪い子になる.
先生や保護者にとって、いや大人にとって「都合の良い子」「扱いやすい子」を求めている。


「あの子は宿題をいつもがんばっているのよ」
「指示したことをきちんとやる子だ」
「何の問題も起こすことがない子すな」
先生の言葉を聞いていると、いつも先生が中心になっている。
子供が自分の関心にしたがって、先生のいうことを聞かない子は「良くない子」になる。


学校教育の世界は、「子供たちを同じにする」「均一化」する傾向が強い
すべてではないが、なかには首をかしげる例を耳にする。


どの子も給食嫌いをなくそうと強引に嫌いなものを押し付けている。
あるいは、嫌いな教科を押し付けていることもある。
学校における所作、行動を管理して、まわりと同じにしてしまうことがある。(一部の例)


授業が始まると
「こちらに顔を向けなさい」
「体を向けて聞きなさい」
「手はひざにおいて聞きます」
聞く姿勢を同じにしてから授業が始まる。
これを当然のしつけと考えている。
もちろん、そのような指示を必要とすることはある。


聞く姿勢を正して、同じにして先生は子供に自分の話を聞かせようとする。
それは違うでしょ?
先生は子供たちが先生の方を見て、聞きたくなるように話すことが前提である。


話す内容であり話術である。
先生自身が伝え方を自省しない限り子供のせいになる。


さらに、個人の自由を無視して、みんな同じ扱い、みんな同じことをさせようとしている。
本来、子供の能力は同じではない。
にもかかわらず、同じように指導しようとするところに歪みが出てくる。


子供の行動を同じようにする。
みんなが頑張っているからあなたも頑張りなさい
頑張れない子供の事情は無視している。
周りの子供を基準にして、その子を評価する。


みんなは喜んでしているのに、嫌っているのはあなただけでしょ
どこに個を大切にする教育があるのか。
一人ひとりを大切にするというキャッチフレーズとは真逆のことが行われている。


だからといって、子供たちに強制することがダメであるとはいえない。
なぜなら、人間としての基礎基本は、どの子の場合でも身につけなければならないものだ。


そこの兼ね合いが指導者としては難しいですね。

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