教育随想1016回 怒りたい感情と冷静な態度の間で子供を諭す
2学期は、学校行事が多い季節です。
学校行事が多いということは、直接子どもと関わって、一定の評価水準にそった指導が多いということです。
運動会にしても団体種目は「見栄え」を考えて指導するでしょう。
音楽会にしても、一定の水準を保たなければなりません。
それに加えて、時間は無制限ではありません。
そうなってくると「先生の「あせり虫」がでてきます。
「あせり虫」が体内に充満してきます。
ふだんなら見逃すことでも、「あせり虫」が見逃してくれません。
ふだん押さえている「愚かな先生」がひよっこり顔を出します。
子どもたちに「怒り」「皮肉」をぶっつけてしまうことがあります。
これはだれにでもあることです。
先生という顔の中に、多様な自分が隠れています。
状況によって、かっとなったり、いらいらしたり、無駄な叱責をすることもあります。
私などは、あとで後悔したものです。(人間が未熟にできているので)
子どもたちに丁寧に指導してきた運動会の指導が、たった一言の叱責で水の泡になることがあります。
その言葉が、子どもに向かって言っているのか、それとも、観客である保護者に向かっているのか自省すべき点がありますね。
子どもとの絆がひとつの皮肉と叱責によって、そこでぷっつんしてしまうことがあります。
私もその一人です。
そして、あとで、言い訳がましく「先生として当然の処置」だと言います。
子どもの冷たい視線を感じることがあります。
ひとつの事象に対して、先生はどんな自分を内に秘めているのでしょうか。
先生の体内にはらんでいる自分。
見守る 導く たしなめる 注意 拒否 非難
叱る 怒る 激怒 処罰・・・。
事に応じて、子どもに応じて、どの自分を表出するかを考えます。
どんな状況でも同一対応では、子どもたちに舐められます。
いつも同じ言葉、態度で子どもに関わっているとだめですね。
腹の内では激怒したいことがありますね。でも、それを表面にだすことなく、キレないで、「諭す」「たしなめる」などの態度で臨みます。
自分の体内の感情と表面の態度、理性との相違が教育力を増していくことになります。
それが、子どもの反省を呼び起こすのです。
子どもたちが問題を起こしたときほど、先生の感情と理性のギャップが子どもを変えていくのです。
「先生、どうして黙っているのかな」
「先生、どうしてしからないのだろう」
先生は叱りたい気持ちでいっぱいです。
子どもは、叱られることのほうが楽なのです。
無視、沈黙されるほど、子どもは自分を振り返ります。
先生は自分の感情をコントロールしているのです。
叱りたいけど叱らない。
そこに、先生として、指導者としての力量が強化されていきます。