教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 806回 5年国語「たずね人」 自力で読ませるための発問

国語の読解学習において、校外学習で先頭に先生がたって引率するようなことはしない。
先生の質問に答えていくだけの学習になる。
子どもは物語文の全容がはっきりしないまま物語の終着点につく。


子どもが自力で読むためのきっかけをつくる発問を考えることが教材研究である。
もちろん、その前に教材に対する一個人としての教材解釈が必要である。
それは客観的であると言い切れるものではない。
授業者の人生経験、生き方に影響されながら教材が解釈される。
私たちが小説を読むときも、小説の主人公に自分の人生を重ね合わせる。
私たちは、物語を読むとき、自分の主観を入れずに解釈することはできない。


それでは、解釈が偏向されてしまうのではないかという懸念がある。
だから、解釈のあとに、参考書等で自分の解釈と比較検討する。
さらに、子どもたちの感じ方、考え方には、自分と違う見方がある。
そこから、学び得るものが多い。
授業を通して、私的な解釈が修正されていく。


「たずね人」の発問をあげる。
その発問を提示して、子どもたちの一人読み、集団読みに任せる。


主人公 綾がポスターに出合うところから始まる。
すごく不思議なポスターだった」が、ポスターを見終わった時
本当に不思議な気がした」に変化している。
この間を読ませる。
子どもたちは、ポスターの不思議なところを読もうとする。
それが最後に「本当に不思議」とする理由は何かを考える。


P.108 「私は、もう一度ポスターを見に行くことに決めた」理由は何か。
 夢の中から探してみよう。
子どもたちは自力で夢の内容を読む。
そのなかでもう一度ポスターを見ようと思った理由がポスターのなかにある。


P.110「広島に行けば。きっとあやちゃんを見つけられるような気がした
 のはどうしてか。
この時にお母さんの助言が素晴らしい。
「アヤちゃんをさがしに行ってみましょう」
いるはずもないアヤちゃんなのに、綾が探しに行こうとする気持ちを大切する。
綾を育てようとするお母さんのやさしさが表れている。


資料館を半分も見て回らないうちに、わたしは頭がくらくらしてきた。
  何もかも信じられないことばかりだった。」

平和祈念資料館に入った綾が目にしたものは何か。
「くらくら」すること、「信じられない」こととはどんなことか。


さらに「うちのめされるような気持ちになった」最も大きなこと、衝撃的なこと
とはどんなことか。
子どもは綾の視点によりそって資料館を見る。


「うちのめされる」言葉の指導が大切である。
「打ちのめされる」
二度と立ち上げれなくなるほどひどくなぐなれる。
もちろん、この場合は、綾の気持ちである。


P.114  「どうしても目がはなせなかった」のはどうしてか。


おばあさんはだまりこんでしまった」「泣き笑いみたいな表情だった」
 この言葉から、おばあさんが綾子に伝えたかったことは何か考える。
おばあさんの沈黙、泣き笑いのなから深い悲しみを想像する。


おばあさんの話を聞いて
わたしははずかしくなって下を向いてしまった」
  綾子はどんなことをはずかしく思ったのか。


いよいよ物語のクライマックスである。
「昼過ぎに、この橋をわたったときには、きれいな川はきれいな川でしかなかった。ポスターの名前が、ただの名前でしかなかったように・・・」
わたしはらんかんにもたれた」
「お兄ちゃんもせかさなかった

資料館をあとにした二人の気持ちが強く表れている。


綾に寄り添っている子どもたちは、自分なりに自由に二人の気持ちを想像する。
物語はここにきて、読者に作品を任せることになる。
この時に指導者が平和を押し付けないようにすることが大切である。
言葉で平和を教えてはならない。
平和とは、一人一人が肌で感じるものだから。


参考に
P.119には接続詞「そして」が二つある。
この「そして」は、大変重要な使われ方をしている。
そして」には、最後に一つ、大切な情報を付け加えるはたらきがある。
「そして」がもともと帰着点を表す「そうして」に由来するからである。
「そうして」そのようにしてそこに至ったという帰着点としての意味から
「そして」のニュアンスが生まれた。
だから、「そして」の多用はいけない。

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