教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想262回 親は 就学前の6年間の 担任です

思いやりのある親が、「思いやりのある子ども」を育てます。
 進んで学ぶ親が、「進んで学ぶ子ども」を育てます。
 たくましい親が、「たくましい子ども」を育てます。
 よく働く親が、「よく働く子ども」を育てます。
 わかっていてもできないのが人間ですが、そのことがわかっていることこそ大切なことではないでしょうか。


 子どもの姿は、親の姿です。親の姿を映し出したものが子どもの姿です。
 私の息子たちは、三十代になっていますが、彼らの姿をみるたびに、私の親としての問題点が指摘されているように思われます。
 子どもたちの問題点は、つまるところ、私自身の問題点であるということを痛感しています。だからこそ、大人になった彼らにできることはしてみようと思う毎日です。だめなオヤジですから。


 よく耳にする言葉ですが、「私は子育てに失敗したよ」という声です。
 そうでしょうか、子育てというのは、子どもたちがいくつになってもできるものです。もちろん、未成年の頃のような育て方はできません。
 親がどのような失敗をしても、それを乗り越えていく姿を見せることが、子どもを感化していきます。


 そもそも失敗ということがおかしいですね。
 失敗なんてないはずです。
 私たちが勝手な理想や目標をかかげて、それに対して達成されていなかったら失敗とするわけでしょう。子どもにとっては、どうでもいいことです。
 子どもは、過去がどうであろうと、今、自分に対して親がどのような愛情のかけ方をしているのか、そのことが重要な関心事です。



 親の人間としての生き様をみせるしかありません。
 言葉でもなく、物でもない、人間そのものを見せていくことが子育てにつながっていくと思っています。
 そして、子育ては、私という人間を育てることだと思います。
 子どもを育てることは、親が育てられていることです。


 母子家庭の子どもがいました。お母さんは、働くことで精一杯でした。
たくましく働いておられました。
 お会いするたびに、「わたしは、親として子どもには何もしてやれないのですよ」と言われていました。しかし、その子どもは、お母さんを見て、たくましく育っていました。「なにもしてやれていない」と思われる心の優しさ、気遣いが子どもに伝わっています。だから、なにもしていないということはないです。
 その子が言いました。
 「お母さん、ぼくのために毎日遅くまで働いているんや」
 この親子は、言葉で伝え合わなくても、心の中でお話ししているようでした。



 町でよく耳にする声。
「どうして、この子は本を読まないのかしら」
 親は家で読書していますか。わからないことをすぐに調べていますか。自分のできないことを子どもに求めるのは無理です。


「どうして、この子はだらしないのか」
 家の中はいつも片づいていますか。親がぬいだ服をたためていますか。ごみはきちんと片づけていますか。食卓の上は整理されていますか。トイレの戸は開いていませんか。
子どもたちは、そういった環境の中で、好ましいことも好ましくないことも身につけます。


「どうして、この子は冷たいのか」
 子どもが病気やけがをしたとき、子どもの額に手を当てたり、けがの状態をみてあげたりしていますか。
 「薬あるからつけておきなさい」で、済ませていませんか。
 子どもたちは、「手当て」「手をからだにあてて」ほしいのです。自分が大切にされているということを確認します。
 医者の診察を受けるときも同じですね。
 「コンピュータばかり見ないで、私をみてください」と言いたくなります。


「どうして、この子は言葉が悪いのか」
 学校生活の中で子どもたちの言葉を聞いていると、これは親が教えた言葉だと思われるものが多くあります。
 「あほ」「ばか」などは、親に言われ続けている子どもが、友だちにも、その言葉を発しているようです。乱暴な言葉使いは、親から身につけたものがほとんどですね。もちろん、成長するにしたがって、友だちから覚える言葉も加わってきます。
 就学前の子どもたちは、親の鏡そのものかもしれませんね。
 立派な親もいなければ、だめな親もいないと思います。
 子どもにとっての親の生きざまは、いい意味でも悪い意味でも、お手本になっていることです。

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