教育随想 260回 よい子という殻の中で 生きている子どもたち
町のショッピングセンターのエスカレーターに乗ったときのことです。
アナウンスが聞こえてきました。
「よい子のみなさん、エスカレーターから手をだしたりからだをのりだしたりしないでください。」(子供に対する注意)
私はこれを聞いて、おかしいなあ、よい子はだったらそんなことをしないのに。「よい子のみなさん」ではなく「悪い子のみなさん」と言い始めなくてはいけないのではと笑ってしまいました。
「よい子であれば好かれる」「勉強ができたら愛される」「完璧に物事をこなせば批難されることはない」と、ひたすら思って生きている子どもがいます。
これは、おとなが幼少の時から子どもをよい子にしてきた結果です。
もっと、自分の本当の思いをだしたらいいのにと思います。
何でも大人の言われたとおりやってみようとする子がいます。
表情は硬いです。どことなくこちらの表情を気にしながら行動しています。
「よい子ね」「まじめな子ね」といわれる中に、このような子どもたちがいます。
幼いときから、自分をしっかり表現してこなかったようです。
自分の思いがあっても抑えて、親や大人に好かれることを優先してきました。
成長するにつれて、親の言いなりになることに怒りを感じるのですが、ぐっと抑えています。
見放されるのが怖いからです。
不安でたまらないのです。
学級の子どもたちの中にもいます。
先生から見放されまいとして、自分の気持ちとは真逆のことをします。
先生も親も「素直でよい子ね」と褒めたり自慢したりします。
誰にとっての素直でしょうか。
そのような子どもたちは、人に好かれることで安心を得ます。
周りから好かれないことを極度に恐れているように思えます。
まじめで、素直でよい子、そして、がんばりやです。
常に、周りの大人から好評価を得るように行動しています。
先生や親に対して、いつもよい感情をもってもらおうとしています。
やがて、外にだす自分と内に秘めた自分とのギャップが大きくなっていきます。
やがては、燃え尽き症候群の様相を呈してきます。
子どもたちは、親や先生とのつながりのなかで、関係性の中で自分のあるべき姿を見出してきます。しかし、あまりにも自分を消して周りに波長を合わせるようになると、やがて、「ぼくはだれだ」という問い返しがでてきます。
やがて、自分を確認する時がきます。
さもないと自分自身が透明な存在になることがあるからです。
子どもたちのよい子の部分、「陽」の部分だけを認めたり受け入れたりするのではなく、子どもの「陰」の部分も受け止めていくことが大切です。
親や先生の子どもに対する願いや期待が大きすぎると、子どもは、本来の自分と周囲の期待との間の板挟みになってしまいます。