教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 1034回 先生の安易な思い込みが子どもを固定化

「ある枠組みががっちりできてしまうと、脳はその枠の外のことを
 そもそも認識しようとしない。」(養老孟司)


低学年から「この子はすぐに手が出て暴力的なところがある」
その子は、低学年から担任によって次の担任に申し送りされてきました。


「すぐに手がでる」というその子に対する認識だけが固定化されて、上の学年に上がってきます。
こうなると、その子の他の良さが全く見ようとされないし、認められなくなっていきます。
手がでる原因を成育歴、家庭環境、過去の集団生活から探ろうとしなくなります。
子どもの情報を共有と言いながら、それは、その子の情報を固定化しているにすぎません。
むしろ、他の先生と共有化できない情報こそ大切にすべきです。


優秀な子がいます。
「あの子は真面目で、先生の指示に素直に従う子」という申し送りもあります。
この事実に対して疑問を抱くことなく、低学年から申し送られてきます。
子どもが素直に従うことの不自然さを探ることはありません。
先生にとって良い子、手のかからない子は簡単に教育の場ではスルーされます。


その子が心の底を見せることはありません。
そこには、幼い時からの誉め言葉に束縛されています。
大人にとって良い子を演じることが自分を生かすことであると考えています。
だから、自分の本当の気持ち、したいことがわからなくなっています。


医者は検査をしてから一定の診断を下します。
患者に対する認識をもちます。
先生には、そのような検査はありません。
先生の教育、人生経験という固定的なフイルターを通して子どもを観察します。


自分の観察した以外の子どもの事実を見ようとはしません
本当に自分の認識でいいのか迷いません。
迷ったら、他の先生の評価、保護者の考えを積極的に求めます。
さらには、心理学的なアプローチも視野に入れて子どもを観察します。


先生の思い込みには広がりがありません。
思い込みは思考停止であり教育的指導の放棄です。


まず、先生自身の自分に対する安易な思い込みを排除したいものです。

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