教育随想1309回 先生は 学者ではなく 実践家
大学の先生を学校に講師として招くことがあります。
ふだん気づかない内容もあって、それなりに楽しいものです。
しかし、実践家の言葉ではありません。
学校教育を学問的立場から意味付けておられます。
学者としては、それでいいと思います。
しかし、学校の子どもたちを日々相手にしている先生は学者ではありません。
小さな学者先生はおられますが。
学問的立場から子どもたちを指導すると、最初から子どもたちの行動にフィルターをかけて見ることになります。
臨床医は目の前の患者の苦痛を確かめることから診察が始まります。
最近は、数値データを見て患者を見ることは少ないようです。
実践家としての先生は、実践の体験を記録して、そこから出たことを意味付けていきます。
どこまでも子どもの事実から目を離しません。
問題点を子どもの事実から見つけ出します。
その解決方法も子どものなかから模索します。
実践家は子どもの事実を提供する主体です。
この点が最も大切だと考えます。
子どもの問題行動の解決は、子ども自身の実態を観察することから見えてきます。
それを参考書をもとにして、子どもの行動を分類してしまうと、本当の子どもの姿を見誤ることになります。
そのためには、
最も大切なことは、子どもの姿、事実を見つめる眼力を養います。
その方法は、メモ、記録を取ります。
見つめるために記録するのです。
記録を継続することで、子どもたちの事実を見つめ続けることができます。
眼力とは、子どもの言動に対する「ひっかかり」のことです。
「あれ、おかしいぞ」「昨日と様子が違う」「最近、この点について変わった」「今の言動の意味は」など、子どもを前にしてひっかかっていくことです。
次に、つかんだ子どもの事実に対して、批判する練習をします。
批判するとは、所見であり所感です。
やがて、子どもの事実と事実をつないていきます。
その意味がわからなくなった時、学問的な立場から考えてみます。
実践から学問的なものへと変わります。
学問は一つずつの実践をつなげる時に活用します。
事実を意味付ける時に使います。