教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想1332回  子どもたちの発言がどうして必要なのか

路傍の石

私がいつも不思議に思っていることがあります。

授業の展開を計画している時、発問、質問をして子どもたちに答えさせます。

 

授業において、子どもに発表させる目的は何ですか。

先生は、子どもに発表を求めます。

指名であったり挙手発言であったりします。

子どもが発言します。

「そうだね、そんなこともあるねえ」

「それもいい考えだね」

「おもしろい考えだね」

先生が求める子どもの発表があるまで、子どもたちを指名します。

そして、気に入った声があがると、先生はその子の考えを吸い上げます。

「いいところを見つけたね」とほめます。

 

子どもの発言が、先生の授業を効率よく進めるための手段になっています。

先生の意図しない発言があると、簡単に対応して次の発言を求めます。

 

先生は、授業において、集団学習において存在する意義はなんでしょうか。

先生と発言する子どもとのやり取りで、終始する授業を見かけます。

先生が子どもたちに自分の意図する発言を求めると、親衛隊の子どもたちは先生の顔色をうかがいながら発言します。

授業参観のとき、先生の指導が行き詰ると、親衛隊である子どもに指名することがあります。

 

授業は集団学習です。(すべてがそうではないのですが)

集団学習のなかで先生が子どもの発言をとりあげる意義は、一人ひとりの子どもたちの考えを広げたりつなげたりするためです。

子どもと子どもとの間に入る仲人のような役割をします。

一人の子どもの発言を求めるとします。

その子の考えを周りの子供たちに広げたり考えさせたりします。

「Aさんの考えと似ている人はいますか」

「Aさんの考えと少し違う人はいないですか」

「Aさんの意見を聞いて、みんなはどんなことを考えたかな」

常に、子どもと子どもの考えをつなげるようにします。

 

一人の発言は、池に投じられた一つの石ころです。

水面に波紋を広げます。

この波紋が集団学習のおもしろいところです。

先生は、子供のどの考えをどのように子どもたちのなかに広げなおすか。

あるいは、思考の起爆剤として活用するか。

 

先生と子どもとの二人の対話に終わってはいけないのです。

どの子の発言も集団に返していくようにします。

 

よく授業の参観者があとの反省会で言われる言葉。

「子どもたちは手をあげてよく発言していましたね」

これほど授業のねらいから外れたは発言はありません。

 

子どもの発言、つぶやきから学習内容がどのように深まったかが重要です。

そこに、指導者の巧みな子どもと子供をつなぐ技術が求められます。

集団が学習集団として目覚め、波打っていく子どもたちの動きが大切です。

 

子どもに発言させていれば授業が成り立っている。

発言者が多いと授業が成功している。

挙手が多いと、教室全体が学習に前向きである。

なかには、一時間、子どもたちがしゃべっている授業を参観させていただいたことがあります。

学習のめあてに近づくことはありませんでした。

 

子どもと子どもをむすびつけることで、お互いの連帯感が生まれます。

子どもと子どもの発言をくらべさせることで内容が深まります。

学級集団を学習集団に引っ張り上げるためには、先生の緻密な指導が必要とされます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実践者としての道を求めて

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