教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想580回 学習集団の崩壊(学級崩壊にあらず)

路傍の石

学習集団は崩壊していませんか。
崩壊という言葉は先生にとって、遠ざけたい言葉ですね。
学級崩壊ではありません。
学級崩壊の場合は、子どもたちの様子が顕著です。


学習集団の崩壊、考えてみてください。
授業風景をお話します。
体育、運動場での授業。
運動場では、教室と違って子どもたちの気が散りやすいと言われています。
鉄棒の授業。
子どもたちを座らせて先生が学習の説明をしています。
半数以上の子どもが下を向いて砂をいじっています。
先生の説明を真剣に聞いている姿ではありません。
子どもたちにはよくあることです。


しかし、問題は、話をしている先生の姿です。
多くの子どもたちと目が合っていないのに、説明を続けていることです。
注意したり話を止めたりすることもありません。
子どもの姿がわかっていて説明されているのか、それとも、気づかないのかどちらかですね。
この場面は、明らかに、先生と子どもたちの間では「話す・聞く」の学習は成立していません。


教室の授業風景。
国語の詩の授業。
味わいながら読みなさいという指示を無視して、どなるように声を張り上げている子ども。
ほとんど口をあけないで、自分勝手によんでいる子。
黙読の場面。
黙読をしているときは、ほとんど音がない時です。
にもかかわらず、話し声、椅子をきしませる音、机の脚の音などが聞こえてきます。
子どもたちにとって、興味関心が薄い詩なのでしょうか。


詩を味わう学習集団としては、すでに崩壊しています。
その様子を目や耳に入れている先生は、黙っておられます。
きっと、学習崩壊だと気付かれていないのでしょう。
毎日の授業が同じ動きだと考えられます。


学習集団と学級集団とは違います。
学習集団は、学習材を媒介として、先生と子ども、子どもと子どもが真剣勝負する場です。
考えを出し合って、その考えを吟味しあう厳しい集団なのです。
鉄棒の学習でいえば、自分が少しでも鉄棒運動を上手になろうとする目的をもって学びます。
真剣そのものです。


子どもたちがノートに文字を書いている様子から、学習集団になっているかどうかがわかります。
無音に近い、張り詰めた空気が流れています。
ここに、子どもたちの学習意欲を確認します。


そうでないならば、授業の流れを修正します。
学習集団の崩壊について、子どもたちの様子をあげました。
しかし、崩壊をさせているのは、指導者自身の在り方なのです。
子どもたちを凝視して、修正をしないで、そのまま授業終了まで走ってしまいます。
学習集団の崩壊は指導者の日常的な指導の結果です。

実践者としての道を求めて

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