教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 1302回 教育実践者として生きるということ

路傍の石

先生として子どもたちと向かいあっていると、平穏な日はありません。

たえず、子どもたちの実態が目に入り、心を煩わせることになります。

教育の仕事は気楽な仕事ではありません。

全神経を子どもたちのために使う仕事です。

にもかかわらず、思うようにならないことの方が多いです。

さらに、自分の人間としての未熟さを知ることになります。

 

しかし、先生として、実践家としての道を進むと、実践が私に教育の問題を投げかけてくれます。

教育の問題は、まさに私と目の前の子どもの中にあります。

子どもの一人ひとりの事実のなかにあります。

 

おとなしくてほとんど周りと交流しない子がいます。

遊ぶ時も一人で教室で本を読んでいます。

友達から遊ぼうと声をかけられても断ることが多いです。

授業のなかでは、ほとんど発言することもなくじっと聞いています。

 

先生としては、荒っぽい子どもに比べると手のかからない子のように見えます。

行動に派手さはなく地味です。

しかし、その子と向かい合っていると、生まれた時からそのような実態ではなかったはずです。

何が彼女をそうさせているのか。

いつから、どこからそのような行動をとるようになったのか。

それで、彼女は自分で満足しているのか、させられているのか。

休憩時間に一人で本を読むのは、友だちをさけているだけではないのか。

本当に読書が好きで教室に残っているのか。

もしかして、自分の気持ちを隠すためのカモフラージュではないのか。

家庭でも親とは口数が少ないのか。

消極的に見える彼女の行動のうちに秘めている本当の願いは何か。

 

子どもたちから解決すべき問題を投げかけてくれます。

 

それが学級全員となると、手に負えなくなります。

子どもの問題は児童理解の問題を提供してくれます。

子どもの問題は参考書の問題ではなく、実際の目の前の子どもが抱える問題です。

 

学習意欲が乏しい子ども。

生まれた時から乏しいはずはありません。

今まで学習してきた結果としての彼の存在です。

教科学習が理解できないといつから諦めたのか、いや、まだ希望を持っているのか。

親の厳しさから意欲をなくしたのか。

先生の指導の結果として生まれてきたのか。

周りの友達のように勉強ができるようになりたいと願っているのではないか。

いろいろとその子について思い悩みます。

 

教育の問題は実践者としての問題です。

子どもの事実から目をそらさないことです。

丹念に、その事実を記録していきます。

思い込みや憶測だけで子どもを捉えないようにします。

そのためには、子どもの事実の集積が必要です。

 

こう考えると先生としての課題が、教室のなかにあふれていることがわかります。

それが教育実践者、臨床に望む先生の幸せだと感じていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実践者としての道を求めて

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