教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 760回 もしかして 学級崩壊ではないかも

学級崩壊という言葉は現場で言い古された言葉である。
しかし、本当に学級崩壊になったのだろうかと疑う。
特に、最近、子どもたちへの指導の様子を聞くと、学級崩壊ではないのではと思ってしまう。
そもそも、学級崩壊なんて,初めからなかったのではないか。


崩壊とは、くずれこわれることである。
だから、もともと出来ていたものがあったという仮定の場合である。
学級という集団が組織されて、初めのうちは、機能していたという前提がある。


4月には、学級は存在しない。
信頼関係も皆無といっていい。
一つの学級集団、そこに子どもたちが集合しただけである。
そこには、親密さも信頼も薄い。


ところが、担任だけは、子どもたちとの信頼があると思い込む。
担任だけが、子どもたちの前に立つ資格があると考える。
4月の集団、新クラスの発表があって、そこに当てはめられた担当者にすぎないのに。


子どもたちにとっては、よそ者である。
しかし、先生は、そのように思っていない。
私は君たちの先生だ」という顔をして、子どもたちの前に立つ
だから、先生は、子どもたちに対して横柄になれる。


もう一度繰り返す。
「私は、あなたがたの担任です」と胸をはって子どもたちの前に立つ。
子どもたちは「おまえは、ただの他人だ」という意識をもって迎える。
そこには、両者の明らかなずれが生じる。
学級はできていないのである。
ただの形式的な集まり、集合体にすぎない。


そう考えると、学級の一年間は、3つのパタ-ンがある。
1. 学級集団をつくらないまま一年間がたってしまった。(未形成)
2. 学級集団をつくったが、後半、少しずつ崩壊してしまった。
3. 学級集団をつくり、最後まで、集団が育ち,個人も育っていった。
真の学級崩壊とは、2番のことである。
多くは、学級が形成されていないので、学級崩壊とは言わない。

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