教育随想 19回 子どもの名前よりも 表情を焼き付ける
新学年に先だって、子どもの名前を覚えられる先生がおられます。
始業式の日にさりげなく子どもを見て、その子の名前を呼びます。
子どもたちは「えっ、ぼくのこと、知っているの?」と驚きの表情を見せます。
そして、「私は」「ぼくの名前を知っているの?」とせがむようになります。
サプライズを期待しています。
自分の名前を知ってもらえているというだけで、子どもたちは嬉しいようです。
私も何回か、実行してみたことがあるのですが
最初だけですね。方法としては、理にかなっているのですが、私は、それよりも子どもの姿、表情を自分の目の中に焼き付けることの方が大切ではないかと考えるようになりました。
その子のいい表情を記憶することです。
それをもとにして、毎日の子どもの観察が始まります。
「散髪したね」「靴、買ってもらたんだね。なかなかいいよ」「おっ、今日は、服の色を変えたね」など、子どもたちの姿に関心をもつことです。
服の色で思いだすのが、一人の六年の女の子でした。
何ヶ月も上下、黒しか着用しない子どもでした。
「いつも黒色の服だけど黒がすきなんだね」と問いかけると「べつに、そういうわけではないけど」と、暗い表情を浮かべていました。
黒は、自分の心、想いを隠す色だと言われています。
私は、その子の内面が気になっていました。
やがて、家庭の問題があることがわかりました。
この子が明るい色の服を着てこれるように努力しなければと考えるようになりました。
学校生活を楽しいものにすることで、どんなに家庭問題があっても、それを乗り越えられることがあるものです。
せめて、学校にいる時だけでも、楽しい思いを味わえるようにしたいと思いました。
その子どもは、六月の終わりごろに、初めて、ピンクの服を着てきました。
私は「かわいいよ。黒も悪くないけど。明るい色もいいね」とほめました。
先生は、子どもの変化にすぐに気づかなければなりません。
「昨日からきているよ」ではだめですね。
子どもの姿、表情は朝の観察から始まります。
1か月は、朝、一人一人出席をとります。
返事の明るさ、大きさなどその変化が重要です。ほかの子に比べて、声が小さいと比べるのではなく、その子の昨日と比べてどうなっているかということを意識します。
髪の毛の手入れ、顔を洗っているか、口もとの汚れ、襟がたっていないか、目のまわりの目やになど、家庭での生活がそのまま持ち込まれてくるのが朝です。
それらの事実から、家庭での生活を想像していきます。
一週間、同じ服をきている子どもがいます。洗濯されていません。親の子どもへの関心の薄さ、あるいは、保護者の忙しさなどを推測します。
「子どもを知る、理解する」と簡単にいいますが、難しいものです。
誤解、誤解の繰り返しのなかで、ほんの少し理解できるかなという程度です。
理解しているという傲慢さが怖いです。