教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 1111回 新学期 前担任から子どもの情報 懐疑的に

新しい学級の担任が決まります。
専科の先生は自分の受け持つ学年、学級がわかります。


その時に必ず、前担任、担当者との引き継ぎがあります。
事務的なこと、行事に関すること。
そのなかに子どもたちの情報のやりとりがあります。


私は、子どもについての情報に耳を傾けます。
しかし、そのことは記憶の端にとどめるだけにします。
できれば聞かないほうがよいこともあります。


「この子は素直で問題のない子です」
それは、前の担任の価値基準で捉えた子供です。
その先生には素直な子であっただけです。
子どもは、自分をさらけだせなかっただけかもしれません。


反対に
「この子は乱暴で言葉遣いも悪かったです。」
その子と先生の間、限られた人間関係のなかでの事実です。
その子の真実とは限りません。
担任の指導に反発していたかもしれません。
不服従な子供を一年間指導できなかったことは悔しいものです。
担任が代われば、子供も変わるという事実をいくつも見てきました。


先生は、自分の指導に従順だった子を良い子として引き継ぎます。
不服従の子供を問題のある子として引き継ぎます。


もしかしたら、問題は、指導する先生にあったかも知れないのです。
子供にとって先生は、自分の環境、「縁」なのです。
縁によって子供は開花もすれば、しおれることもあります。


私は、子供たちに、特に出会って一週間は、先入観なしに子供たちを眺めます
前の担任からの情報があると、その枠のなかで子供たちをとらえてしまいます。
「あの子は、問題だ」という枠で接すると、問題になる部分を探そうとします。
結果的に、その子の良さを自分の視界外においてしまいます。
見落としてしまうのです。


一週間たってから、子供の過去の情報に目を通します。
そして、「なるほど」と納得する面と「いや、ちがうぞ」と納得しない面を見つけます。
その違いがどこからくるのかを探ります。
情報と自分の見方とのずれを探ります。
私の観察の浅さなのか、過去の情報の偏見なのかを考えます。


子供たちに固定的な見方をもつことは考えものです。
先に、真摯に子供たち一人ひとりの事実をありのまま受け入れます。


子供の分析は、新学期が始まってから時間をおいてからです。
私は、連休前ぐらいまでは事実だけを記録して、連休中に児童分析をしました。
そこから児童一人ひとりについての指導方針が大まかに決定します。
ただし、指導方針は流動的です。
私の見落としがでてくるからです。

×

非ログインユーザーとして返信する