教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 101回 低学年の学級経営 指導性よりも人間性を強く



こんな相談内容がありました。
    低学年の学級経営について
 どんな活動をして どんな言葉をかけて どう評価する?
 


学級づくりとは、一人一人の学習意欲を中核にして、集団の生活機能を高め、学習効果の発展を願う教師活動の総括をさしています。


生活、環境、社会能力(躾)学習能力、個性  すべての条件が違う子どもたちが、期せずして出会ったのが学級の出発です。              
一人ひとりの子どもたちが自分勝手な考え方に基づいて集団参加している状態なのです。


 自己主張だけを通そうとする子・自己主張の乏しい子・集団を隷属させようとする子・集団に関心がなくひとりを誇示する子・集団にもくもくと従う子など
最初において何の共通基盤もない。
しいていえば、担任の先生と教室が同じというぐらいです。
 ところが、担任は、4月当初から、自分を受け入れてくれるように錯覚してしまい、意のままに動かそうとします。


一人ひとりは、自分勝手な風を出しており、学級内は子どもたちの吐き出す風がぶつかり合い、打ち消しあう状態になっています。
学級づくりは、それぞれの子どもの風のエネルギ-を損なうことなく、風に方向を与えることで、学級(集団機能)としての成果を認識させていく過程なのです。
その方向を与えるのが学習意欲であり、授業です。                  
そう考えると、学級づくりは仲間づくりです。



低学年についていえば


①指導性よりも人間性を強くだす


ふれあいを大切にして、温もりのあるかかわり方を大切にします。
そうはいっても、高学年から低学年の担任に変わると、戸惑うことのほうが多いです。どうしても、頭で子どもをとらえようとします。そうではなくて、まず、関わってみることの大切さを痛感しました。
「遊び心」です。なんでも遊びにしてしまうような楽しさを子どもたちは求めています。
実は、教育実習で一年生の教室に入ったとき、何人かの子どもたちが飛びついてきて、私のカッターシャツの袖を両方から引っ張り出しました。
私は、驚きましたが、されるがままにしていると、袖が破けてしまった経験があります。
私の一年生に対するイメージは、その時に出来上がりました。以後1年担任は一度だけです。


②受容から抱擁、そして受容 体から体に入れる。


 高学年も同じてすが、低学年では、スキンシップが中心となります。
 ほめるときは、頭をなでます。叱るときは、手をぎゅっとにぎって話します。子どものどこかに(手、頭、肩)触れることを通して、コミュニケーションをはかります。
 言葉だけでの発信はだめです。身体的表現を必要とします。


③先生の人間性を頭からかぶってしまう低学年の子どもたち


 低学年の子どもたちの怖いところは、先生の影響を頭からかぶってしまうところです。
 「先生がいったよ」「先生がいいといったよ」「先生に言いつけるから」
家庭でも「先生と違うよ」「先生はそうしなかったよ」など、子どもの心の中に先生の存在が大きくなりやすいです。
 したがって、子どもたちへの言動は控えめにすることも必要ですね。


④しっかり子どもをつかまえているが、子どもからはそんな感じがしない
 束縛されているが束縛感がない。


 低学年は鳥かごの鳥をだくような感じがいいと思っています。強くだくと息苦しくなります。かといって、手を緩めすぎると飛んでいってしまいます。
 そのちょうどいい加減な抱きかかえを求めます。


⑤常に、先生という人間じゅうたんの上にいる。ほっかほっかのカ-ペット。


 低学年の子どもは、先生中心なのです。
 先生がしっかりとヘッドシップをとっていくことで、子どもたちは、それを模倣します。
 先生のだらしなさもの、食事の仕方も、話しぶりも子どもたちに影響を及ぼしていくことが多いです。
 高学年でも、まれにそのような子どもはいます。


⑥授業は、5分間隔で集中と休憩、学習と遊びを交互に入れる。


 一年生の一学期の授業は、遊びの中に勉強を入れるようにします。
  子どもは、まだ、人ではありません。教育を通して、人にするのです。子どもの意見を聞きすぎないことです。しつけることは、集団・社会への適応の第一歩です。

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