教育随想1195回 教育はデジタルの方向に進めない
年間はあっという間の時間です。
4月に意気揚々と子どもたちと向かい合ったにもかかわらず、時間を追うほどにその心意気もしぼみがちになります。
なかには、最初の計画どおり順調に子どもを育てることができているという先生もおられるかもしれません。
このデシダル社会は、いつしかデシタルの心がしみつき始めています。
電源オン・オフ 入れるか消すか二つに一つです。
電源をオンにしたら確実に照明がともります。
オフにしたら確実に消えます。
オンにしても照明が消えたり、つかなかったり、ちらちらしたりすることはありません。(故障は別)
デジタルの心は中間、あいまいさがありません。
ところが教育において子どもたちを育てる時はデシタルは通用しません。
先生が指導しても子どもにどのように響いていくかあいまいです。
子どもたちがルールを破り問題を起こしたとき
「しっかりと注意、指導しておきましたから大丈夫です」
と言い切れないですね。
先生の指導はつねにアナログなのです。
全校生徒に対する生徒指導目標なるものがそうですね。
週のはじめに朝会等で生徒指導の目標を子どもたちに伝えます。
伝えて子どもたちがすんなり聞くとはだれも思っていません。
それでも建前として「日々指導しています」という事実が学校には必要なのです。
生活目標が大切であるなら、どうして子どもの心に入っていかないかを考察しなけれはなりません。
その分析、反省、さらなる指導の過程が必要です。
世の中「平和が大切です」と声をだしたらそれで終了です。」
平和とは何か、その具体的なアプローチをどうするか。
そのようなものはありません。
子どもに対する教育もこれに近いです。
学校教育目標に「めざす子供の姿」とその内容をあげながら、何年たっても実現しません。
いや、近づいていくこともないといえば言いすぎでしょうか。
「今年めざした子どもの姿については達成した。次の姿を目指しましょう」という学校教育反省が行われている学校はどのくらいあるのでしょうか。
指導目標は、その文言があいまいです。
しかしながら、そのあいまいなものを少しでも具体的に捉えていく姿勢が必要です。
教育を実践に移すには、常に、具体的な動きが求められます。