教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想108回  一年間、担任を引き受けたからには

昔からの言い伝えに「習い事は百日を要する」というのがあります。
いやなことでも、つらいことでも百日我慢して続けると自分から進んでやってみようとする気力がでてくるものだと諭した言葉です。


百日は3ヶ月余りです。一学期に相当します。
その中で先生も子どもたちに我慢して働きかける3ヶ月です。
子どもたちのしつけも3ヶ月です。
4月に子どもたちに身につけさせようと日々続けたことは、3ヶ月たって、7月ぐらいに定着します。ひたすら我慢と継続です。


ところで、4月当初心地よい春風を受けて担任としての気力も充実し、学級づくり、授業づくりに理想を持たれてスタートされたと思います。
やがて、3月。遠い存在だった理想が3月になってぐっと手元に近づけた時の喜びを想像してみてください。
たとえ、一つのことであっても、先生が掲げた理想、小さな理想、ささやかな理想が少しでも実現できたら担任としてうれしいことはありません。


反対に、3月になると、4月の理想ははるかかなたに去ってしまっていることもありえますね。
そのような時に思いました。
今年も学級を担任として指導できないで、来年度の子どもたちを指導できるのだろうか、その勇気がわいてくるだろうかという不安がありました。


教育作用という言葉があるならぱ、理想と現実の間に横たわる数多くの障害を取り除いて、現実の子どもの実態を少しでも理想に追いやることではないかと考えます。


私は、3月になって職員室で次のような先生方の愚痴を聞くのがいやでした。
「一年間指導してきたが、この学級は最低だ」
 ➡だれの学級だったのでしょうか。
「子どもが悪いなあ」
 ➡いつまで言い続けられるのでしょうか。
「研究体制が悪い」
 ➡研究は個人にありです。
「親が悪いから指導が浸透しないんだ」
 ➡どこまでも周りの責任ですね。
「前担任の指導が悪かったからうまく指導できなかった」
 ➡前の担任の影響は、最初の2か月ぐらいです。あとは、誰の・・・。


担任としての無責任な言葉を聞くことが嫌でした。
担任はどこまで、目の前の子どもの実態に責任をもたなくてはいけないと考えます。
うまくいっても、いかなくても正直に自分の指導力を振り返ることが大切だと思います。子供たちは、私自身の在り方を映し出す鏡でした。
反省と悔しさの毎日でした。


やがて、一学期が終わります。
この時期には、4月から手掛けられたことが、少しずつ芽吹いてくるときです。
もし、全く手応えがなかったとしたら、二学期の計画をたてることができるのでしょうか。

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