教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 1344回 学校行事も授業 子どもと対話的な営みを

路傍の石

教育が目指すものは、時代によって少しずつ変化しています。

子どもが現在、未来の社会の担い手になるために必要な能力は少しずつ違ってきます。


しかし、子どもたちは無限の可能性を持っていると言われています。

無限の可能性とは、どんな可能性なのでしょうか。

そのためには、目の前の子どもがどのような力の芽を持っているかを見極めます。


子どもは一冊の本です。

先生は、子どもという一冊の本を何回も読み直します。

読み直して、子どもの持っている能力に気づきます。

これは難しいことですが、先生の能力、人間的な枠組みのなかで捉えたらいいいと思います。


読み終えたら、今度は先生が子どもという一冊の本に書き込みを入れます。

潜在的な子どもの能力、人間的な感情を見い出します。

そして、先生は、そのなかでどのような力を引き出し膨らませていくくかを考えます。


さらに、子供の中にないものをつくりだすこともできます。

すべての教育は、子どもという事実から出発します。

その事実をもとにして先生の具体的な指導が浮かび上がります。

参考書はあくまで参考であって、目の前の子どもに使えるとは限らないですね。。


ところが、たいがいの場合、先生は、参考書で得たものに子どもをあてはめていこうとします。

いったん、先生が子どもを参考書の方法にあてはめてしまうと、先生のオリジナルは弱くなります。


まず、子どもの事実と向き合います。

先生のこれまでの経験でみるのではなく、自己を透明にして見つめます。

これは難しいです。

ベテランになるほど、自分自身の経験を出してきて、子どもを見てしまいます。

目の前の子どもを自分の経験に照らしてパターン化してしまいがちです。

先生の人生で得たもので子どもを判断してしまいます。

無理のないことです。

しかし、ここで、子どもに対する認識を否定します。

「本当にこの子は・・・」と疑います。

そして、違った側面から子どもを捉える努力をします。

前置きが長くなってしまいました。


学校行事は、無事に終わればいいという方も多いです。

子どもたちをどう合理的に指導するか。

子どもの実態よりも指導者が、楽に子どもを動かすことを考えがちです。

指導する立場から行事を捉えます。

先生の都合で行事を考えると、「昨年度の行事の継承」ということになります。。

そこには、今年は、今の子どもをどのように育てたいという希望、執念が見当たりません。


運動会でも音楽会でも、そこになしとげたという子どもたちの感動が必要です。

そのためには、自分たちの力で工夫し創造していくという目標が必要です。

子どもは先生の指示どおりに、何回も同じ場面を繰り返す。

やがて、子どもたちの意欲は少しずつしぼんでいく。


行事は、学級、学年の集団で創り上げるイベントです。

そこには、子どもたち同士の仲間意識を育てるきっかけにもなります。




普段の教室の授業とは、規模において違ってきます。

子どもにとって学校行事は新鮮味がなくなっています。

形式的なものであり、低学年の時から見てきたものだから。

したがって、子どもにとって自分が工夫できるという未来がないです。

未知の世界がなく抵抗もない活動は、子どもたちにとってわくわくするものでしょうか。


行事指導の様子を拝見させてもらっても、そこに、子どもたちが生き生きとぶつかっていないです。

新しいものを作り出そうとする子どもたちのエネルギ―を感じないのです。

先生の指示命令のもとに、効率的に動かされている子どもの姿を見ます。


卒業式も授業です、

子どもたちの希望、願いを見出して、先生とともに創り出していきます。

子どもが主役になるためには、子どもの願いを引き出して、自分のための卒業式を創り上げられるように、先生がサポートします。

実践者としての道を求めて

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