教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 880回 ゆとり教育 子どもの主体性に疑問

ゆとり教育の総合的学習の授業は、子どもの関心、意欲に委ねた学習でした。
子どもの主体性を重んじた学習でした。
学習課題も子どもが主体的に決めるものでした。(理想として)
ところが、子どもが課題を決定できる能力は育てられていませんでした。
「どうしていいかわからない」迷える子どもたちを指導者は助言で牽引していました。
どこが子どもの主体性なのだろうと首をかしげたものでした。


ゆとり教育は、従来型の授業を否定しました。
教師が生徒に知識を与え理解を促す授業を否定しました。(全面的ではないが)
それよりも子ども自ら気づくような授業、問題解決型の授業が理想とされました。
問題解決型の授業は、私も若い頃から実施していました。
私が研究対象とした授業形態でした。
しかし、それがよい授業で、従来型の授業はよくないとする風潮がでてきたことに懸念をもちました。
どの授業も教科、教科内容によって自由自在に活用することが大切だと考えていました。


問題解決の授業ばかりをしていると子どもは演習不足に陥ります。
さらに、塾の通っている子どもにとっては、最初から問題の答えがわかっていて退屈な授業になることがあります。
教育は、いつも、一つの型に子どもや先生をあてはめようとします。


よい授業とは、「学力を向上させる授業」です。
方法は、その目的を達成するためのもので、いろいろなプロセスがあっていいのです。
そこに、先生の研究に執着する意味があります。


ところが「教育にはゆとりが必要」という言葉の雰囲気に教育現場は揺れました。
当時、教育委員会の指導主事は各学校の研修に入り、ゆとり教育の啓蒙をしました。


私は、「ゆとり」が時間と内容削減を問題にして、あたかも夢の教育のような印象をうけるように説明されていたことに違和感を感じました。
今までの授業があまりよくないとも言われたものです。
もちろん、私は研究責任者として反発しました。
ちなみに、教育の潮流が新しくなると、ゆとり教育の講師が急に増えます。


多くの学校は、その講師を招いて研修を受けます。
授業者は子どもを横から支援して、子どもたちの求めに応じて助言。
現場の先生は、授業形態だけ導入しても、その内容は学習ごっこでした。
教科書がなくて学校で計画を立てました。。
何回も研修会議を開いて学校のゆとり教育、総合的な学習の計画案を練りました。


教え込み授業が否定され、学力向上よりも問題児や不登校児童など個別問題に取り組むほうが熱心な先生と評価される空気がありました。
私たちは、計画を学校独自で自由裁量できる枠組みをつくり、削減された授業時間の補充をしました。
なぜなら、子どもたちに学びをゆだねると時間の確保が難しくなるからです。


私が最も危惧したのは、学習内容を削減しすぎたために体系な的学習が難しくなったことです。
学校では内容が削減されても、塾の授業では体系的に教えている現実がありました。
通塾組とそうでない子どもの差は開くばかりでした。
私立の学校もゆとり教育にとらわれずに学力向上のための授業を続けていました。


総合的な教育は現場の先生を迷わせました。
課題設定に困りました。
そのプロセスをどうするかも手探りでした。
やがて、教科書などつくらないといった文科省が総合的な学習の教科書を出してきました。(生活科の導入の時も同じ)


しかし、優秀で熱心な先生は、研究団体を組織して独自の民間教育研究団体をすでに作っていました。
私もいくつかの研究団体の成果を学ばせていただいた一人でした。
優秀ではない私だからこそ学びたいと切実に思いました。

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