教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 8回 学級通信の意義に迷う

学級通信を毎日発行されている先生がおられました。
 続けることの努力はすばらしいものでした。


でも、私は、同じ学年にいて、その先生の姿を横目にしながら仕事をしていましたが、私自身、学級通信を発行しようという気持ちは芽生えませんでした。入学したての1年生の保護者への連絡に一時、不定期に学級通信を発行したことはありましたが、それ以降は全くありませんでした。


その理由はいくつかあります。
一番目は、教材研究や子どもたちと関わりで、時間がなかったということです。
学校では、時間があれば、子どもたちと遊んだり活動したりすることが多かったからです。


二番目には、学級通信に対する考え方が違っていたからです。
 「ただいま」
 子どもたちが下校後、家についた時の姿です。
「おかあさん、今日は、理科の実験が楽しかったよ。」「あのね、今日は、みんなと楽しい遊びをしたんだよ。」などの子どもの声、その様子こそ、学校からの学級通信になります。
 学校は、子どもという学級通信を、毎日、送りだしています。これ以上の通信があるでしょうか。


三番目です。
それでも保護者には学校の様子はわかりにくいものだから、文章や写真にして連絡するところに意味があるという考えもあるでしょう。
実は、私も学級通信をやりかけたことがあります。ところが、やり始めてすぐに中止しました。
学級に関する記事を先生の視点でしか選択できません。、先生の好みが入ってしまうこともあります。先生にとって都合のよい記事、「学級は順調に成長しています」とか「子どもたちの元気な姿がありましたよ」という類のものになってしまうことが多いですね。
 学級崩壊や暴力事件が起こるようになったら学級通信を続けられるでしょうか。保護者を不安にさせる情報であるということで通信には掲載されないと思います。


四番目です。
これは学級通信を続けておられる先生のすべてに言えることではありませんので了解してください。
 学級通信を続けていると保護者は「熱心な先生」という印象をもちます。保護者向けの対外的なアピールとして実施しておられることもあります。それによって自分は熱心な先生なのだという自己陶酔をしていることもあります。
私は決して学級通信を否定する者ではなく、私は発行しないという立場でした。
子どもたちが毎日の学級通信でしたから。

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