教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 835回 教材研究は 先生の生き様に他ならない

前回に続いて、先生の人間性についてお話します。
IT教育が導入されることによって、教材と指導者としての先生が切り離されるようになった。
だれが教えても同じことが教えられるものが多く使われるようになった。
教材ごとに指導の仕方がパターン化されている。
そこには、授業者と子どもたちの人間的な関わりが希薄になっている。
全くないというのではない。
教材をIT化するには、指導者の指導観、人間観が反映される。
子どもに対して直接的ではないが、間接的につながりをもつ。


ワークシート、これほど便利なものはないと先生方は言う。
指導者の能力がなくても、そのシートさえ渡して書かせたら学習が完了する。
教材が終わったかのように見せかけることはできる。
しかし、実際には、教材の本質からは離れている。


最近、ごんぎつねを指導されている先生が、ワークシートを多用。
場面ごとに読んで気づいたことと感想を書かせる。
書いたものを発表して終了。


国語の教科書の手引きが詳しくなった。
聞くところによると、国語の苦手な先生が多いので、最低、手引きどおりに進めたら授業ができるようにしたとのこと。
子どもたちが作品の世界にのめり込めるような指導ではない。
いつも、子どもは作品を第三者的に眺めているだけである。
国語は、先生の指導観と人生観が大きく関わる教科である。
国語が人間そのものの生き方を扱っているからである。


物語作品の教材研究する場合を考えてみよう。
作品を何回か読んで、指導書や参考書に飛びつくのは、指導者としての自分を捨てることである。
指導者が人間として、生きてきた経験をもとにして、全力で作品に挑む姿勢が必要である。
作品と格闘することで、自分の思考や感性が揺さぶられる。

それが終わってから参考文献を開いて、自分の解釈と照らし合わせる。
そこには、修正と付け加えがでてくる。


すべての教科の研究において、指導者のオリジナリティが出てこなければならない。
教材の核とは、子どもにこの教材を与えてどのような人間を育てるのか、この教材のどこを問題にするのか・・・。
そのことは、先生自身の生き方が問われているに他ならない。
これらは、すべて、先生の生き方が関与している。
まず、先生が一人の人間として教材に関わることから始める。
何十年もそれを繰り返しながら少しずつ成長していけばいいのでは。

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