教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想834回 子どもへの言葉かけではなく、先生から染み出る人間性

ある先生が一人の子どもとのやりとりが苦手であると言われた。
ことごとく先生の指示に反抗的であるらしい。
言葉かけがうまくいかない。
どのような接し方をしていいのかわからない。
その先生は、言葉を使っての働きかけばかりに気持ちが傾いている


言葉かけは大切だか、それは、子どもに対する接し方のひとつの手段である。
いろいろな場面での言葉のかけ方をまとめた本がある。
参考にはなるが厳密には無駄である。
なぜならば、言葉をかける先生の人間性が除外されているからである。
子どもは、言葉を聞いていない。
言葉を通して先生の人間、人の在り方をみているのである。
子どもは、ダイレクトに先生という人間を皮膚で感じている


だから、先生は、自分の振る舞いを振り返る必要がある。
よく言われるが先生も人間であると。
それならば、その自分という人間を見つめることが、子どもを育てる原点ではないだろうか。


教室の先生は、30人の子どもの視線にさらされている。
子どもは、先生のすべての振る舞いを観察している。
教科書を読むときの表情、板書するときの先生の真剣さ。
給食の時の食べる表情、食後の食器の汚れ、手洗い後のハンカチの使用の有無など、さりげなく見ているものである。
さらに、付け加えるならば、先生の体臭、服の匂い、身だしなみべてを感じている。
先生から一人ひとりの子どもは見えにくい。
逆に、子どもから先生は丸裸にされている。


先生一人ひとりが同じ言葉かけをしても、その言葉の響き方はすべて異なる。
それは、先生の人間性がすべて違うからである。
先生と子どもとの関係性が違うからである。


だから、言葉かけの言葉だけを取り上げてもほとんど意味がない。
むしろ、先生と子どもとの信頼関係が築かれているならば、言葉少なくていいものである。
言葉なしの指導があってもいい。

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