教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 635回 子どもの前に立つ 先生の幸せとは

幸せ(不幸)は他人の幸せ(不幸)を基準にしていることがあります。
私の近所に少し気になる人がいます。
親子で外まで気になるような大声をだして喧嘩しています。
夜遅くの車の出入りの音が気になることもあります。


なによりも奥さんのご主人に対する言葉づかいは、聞くにたえないものがあります。
そこまでいわなくてもいいのにと思う、ご主人もよく耐えておられると同情します。
そんなことを考える私は、卑しい人間です。
私の家は、あの家よりも少しはましであると考えるからです。
自分の幸福を他人の不幸を基準にしていることがあります。
なんとも私は卑しい人間でなのでしょう。


学校においても先生の仕事は、どこかで他の先生と比べています。
比べて「私はましだぞ」「ああ私はだめだな」と感じることがあります。
自分の実践に対する評価基準が自分の中にないからです。


でも、仕方がないです。
私たち日本人の横並び傾向のひとつの表れですから。
教育の世界は、横に並ぶことも大切ですが、逆に、個人の実践として飛び出すことも大切です。。
ただ、頭一つ飛び出ると、まわりの先生の嫉妬をかうことがあります。
先生としての幸せの評価基準、どこにおくのでしょうね。


事件があると加害者が世間からこれでもかというほど責められることが多いです
その裏には「自分たちとは違う。自分たちは善人だから悪人ではない。そう、自分に言い聞かせているのではないかと思えます。


善人と悪人の間に一線をひこうとします。
生活の条件、縁さえそろえば、誰だって悪人になれる。
人間の中には悪が住みついています。
人間ほど、私を振り返っても危険人物はありません。
悪からできるだけ遠ざかろうとすることもあり、引っ張られることもあります。
忌み嫌うように汚れたもの、悪や死から立ち去ろうとすることもあります。
そのような人間としての自己でもって、子どもたちの前に立っているという自覚が必要ではないでしょうか。


人間として、先生としての幸せは、自分自身を見切るところにあると考えています。
自分の在り方、実践を自己凝視するところに、小さな幸せがあるかもしれません。