教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 627回 体育の授業 笑い 楽しさ

散策の時、ある小学校のグラウンドの横を通りました。
中学年ぐらいの子どもが、鉄棒と一輪車の練習をしていました。
若い男の先生が指導していました。
運動場に子どもの声が響いていました。


さて、一見楽しそうに見えます。
子どもたちの声を聞いていると、運動に関係のある言葉は少なかったです。
友だちや自分の失敗の時だけ、奇声を発して笑っていました。
先生は、子どもの周辺をうろうろ歩くだけでした。
歩くのはいいですが、子どもへの視線をはずしてはいけません。


体育において、子どもたちの楽しさが強調されています。
見ていると、子どもたちは運動に楽しんでいるようには思えません。
楽しい算数、楽しい国語、楽しい理科・・・。
楽しさとは何でしょうか。


笑いがあることですか。
リラックスして勉強することですか。
それらは、結果的に表れてくる子どもたちの表情の一部にすぎません。
決して、楽しさを求めることが目的ではありません。


学んでいくことで自分の技能が高まることの楽しさです。
知識を広げたり深めたりする楽しさです。
算数で自力解決できる楽しさです。
国語でいえば、言葉にこだわることで読み深められる楽しさです。


体育の時に遊びを取り入れます。
しかし、その遊びは、遊ばせることではありません。
子ども自身がその活動に没頭していることです。
他のことを忘れて夢中になっていることです。
鉄棒に夢中になるような学びが大切です。


体育の時の指導者は、うろうろするばかりで、子どもの一点を見ていません。
指導目標、技能目標を設定するならば、常に、一人ひとりの学びの様子、
つまずき、成長を見守る必要があります。
常に、活動する子どもの全員が視野に入る位置に立ちます。
そして、必要に応じて、特定の子どもに近づき指導します。
指示➡離れて見守る➡指示➡褒める・・・の繰り返しです。
どの授業においても、リラツクスして楽しく学習することに力点がおかれています。
学びが楽しければ、自然にリラックスして楽しく学習できます。


私の知っている学校も、学校全体で教え合うとか切磋琢磨することはありません。
若い人は、だれにも聞けずに、ネツト検索で授業技術を得ています。
教育や授業が人間からますます遠ざかっていくような気がします。

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