教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 558回 子どもの感性は 先生を一瞬で見抜く

散歩の途中のことです。
少し離れたところで、母親と幼い子どもがせみとりをしていました。
一匹、セミを捕まえました。
そして、透明の容器に入れました。
すると、セミは激しくはねをばたつかせて動いていました。


二人の子どもは、それを見て感動していました。
「動いている、お母さん」「うわっ、生きているんだあ」
「元気だよ」と叫びなから、ケースのなかのセミを見ていました。
子どもたちの喜びをお母さんは「ほんとだね、すごいすごい」と喜んでおられました。
共感しておられました。
子どもに気持ちをあわせながら、二人の子どもたちを微笑みを浮かべながらながめておられました。


親子の温かい空気が私に近づいてきました。
すると、一人の子どもが私のところに駆け寄ってきました。
「みて見て、すごいよ」と目を輝かせながら、私にせみの入ったかごをみせてくれました。
自然のなかにあって、自然を味わえる子ども。
身体丸ごとでせみ、自然をとらえています。
せみとともに心を動かしています。
自然は知識ではありません。
自然は感性であり感動そのものです。


自転車に乗った小学生。
遊歩道を私の後ろから走ってきました。
私は、自転車が近づいてくるのがわかりませんでした。
私が気付くのまでゆっくりとスピードを落としていたようです。


私は振り向きました。
「すいません、通ります」と挨拶をしました。
「どうぞ、気付かなくてごめんなさい」と伝えました。
私は、道を自転車に譲りました。
その子は、私の目を見て、微笑みながら「ありがとうございます」
相手を気遣える子どもでした。
親や先生の顔を見てみたいと思いました。


気が弱いから、子どもだからそうしたのでしょうと言われるかもしれません。
しかし、そうではなく、子どもなりに堂々としていました。
大人である私に距離を開けていませんでした。


よく、子どもらしいとは・・・と話の場にでてきます。
人によって、その捉え方は違います。
自分の幼い時、少年少女の時代の記憶から呼び起こすこともあります。
大人にとって従順な子、元気な子、いたずらする子などいろいろですね。


私にとって、子どもは、「感性豊かな子」なのです。
言葉をどんなに巧みに交わす子であっても、その子の持っている鋭敏な感性なのです。


子どもは、大人や先生を一瞬で見抜きます。
先生がいいわけをしてもその嘘を感じています。
先生の巧みな言葉、へつらうような言葉をはねのけます。
子どもは、自分にとって味方になってくれるかどうかを判断します。
それは、子どもが私たち大人を感性でとらえているところがあるからでしょう。


自然に対しても、言葉を失うのが子どもたちです。
学習において、知識を得るとき、頭ではなく感性、心でとらえられます。


大人になるということは、感性を少しずつ失っていくことかなと自分のこととして感じています。