教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 417回 学校教育目標は 子どもではなく先生自身の目標

学校教育目標は現実の子どもを否定するところから始まっています。
今の子どもの実態が職員会で話し合われます。
自主的に勉強しない。
友達に対して、やさしさが足りないような気がする。
何をするにしても、忍耐力がたりないようである。


だから、
主体的に学ぶ子
やさしい子、思いやりのある子 
ねばり強い子 最後まで頑張る子


こうして、目の前の子どもたちの実態は、いとも簡単に否定され新しい努力値目標が設定されます。


上記の子どもたちの実態を考えてみましょう。
「自主的に学ばない子ども」→「主体的に学ぶ子」に飛躍します。
主体的な学ぶはずの子どもが、どうして、主体的に学ばない子になっているのか、その分析がありません。
主体的に学ばない子、入学した一年生であればわかります。
最高学年の6年生になっても「主体的に学ばない」のは、どのような原因があるのでしょうか。
6年間も義務教育として子どもたちを登校させておいて、未だに、学べない子どもであるのは、誰の問題なのでしょうか。
医者が患者を6年間入院させて、意向に病状が改善されない、それどころか悪化しているとなれば、医者として病院としてどのような責任を感じるのでしょうか。(重篤な病気は別として)


一年生の子どもたちは、勉強が楽しいことを体でもって表現します。
その子どもたちから主体性が薄らいでいく原因はどこにあるのでしょうか。
もちろん、子どもの家庭環境も関係しています。
しかし、先生は子どもたちを義務として登校させています。
子どもたちが主体的に学べない一因は先生にあるはずです。


それは授業にあります。
子どもを教材に引きつけ、教材の世界に身をおけるような指導が不十分だと考えられます。
そうなると、学校教育目標をたてることは、先生の指導に対する努力目標をあげることです。
教育目標が職員で話し合われるとき、子どもたちの実態ばかりが取り上げられますが、先生の指導のあり方はほとんど問題にされません。
教育目標を定めることは、先生集団としての指導のあり方を振り返ることです。


やさしさも粘り強さも同じですね。
先生自身が学校で子どもたちに一番やさしい人でなければなりません。
先生が一番ねばり強く子どもたちを指導できる人でなければなりません。
学校教育目標は先生個々の目標です。


以前に職員同士のいじめが発覚してニュースに取り上げられましたね。
その後、その学校の先生方は、子どもたちを指導できるのでしょうか。
道徳の学習で、差別しない、いじめないと子どもに言えるのでしょうか。
先生に対する不信感を持ってしまった子どもたちを指導できるのでしょうか。


その学校は、新年度に大きく職員を入れ替えました。
他の学校に移動になった先生は、また、教室で子どもたちの前にたてるのでしょうか。
直接自分がいじめていないのでと言われていた先生がいましたが、周りで傍観していたことは、いじめたことにならないのでしょうか。


学校教育目標は、子どもたちに提示する前に、先生方の目標です。

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