教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 407回  先生は、初めから先生ではありません

教育で最も大切なこと、根底にあるものは、自己教育だと考えます。
子どもをどのように指導するか、その前に、自分という人間をどのように育てるかが大切だと思います。
当たり前のことで申し訳ないですが、やはり教育の根源は、ここだと考えます。
私は、自分自身が子どもたちを前にして、最も苦労し悩んだことは、自分という人間の在り方でした。


大学を卒業して、学校に赴任します。
そこではすぐに「先生」として扱われます。
子どもたちも「先生、先生」と呼びます。
このことがなんとなく恥ずかしく思ったものです。
そのうちに、慣れてくると「私は先生だ」という驕りの心が芽を出します。


私は、先生と呼ばれるほどの器ではありません。
ただ、子どもたちとともに歩いていくなかで、共に育つ私でありたいと思って先生になりました。
先生は、初めから先生ではありません。
医者が患者に育てられて臨床医になるのと同じです。
先生も子どもたちに育てられて先生になっていきます。
生涯、その繰り返しです。


しかし、私は、人間としてあまりにも不十分な先生でした。
子どもは、私の欠点を映し出してくれる鏡のようなものでした。
子どもに注意したり叱ったりしたときに、自分自身はどうなのかと自問自答しました。


子どもに勉強を指導するほど、私は勉強してきたのだろうか。
子どもに整理整頓、ていねいに掃除を指導するほど、私は、自分の部屋を片付けてきたのだろうか。
子どもにやさしい人になれという私は、やさしい人間なのか、決してそうではない。
子どもの暴言を注意するとき、私に暴言をはかなかったのだろうか。
そのように考えると、未熟な人間が先生の道を進んでいるという自覚が必要でした。
教育の道は自己教育にあるとは、先人が言われたことです。


子どもを叱りながら自分を叱る、子どもに指導しながら自分も指導する日々の繰り返しです。
子どもの心に映る私自身の姿を振り返る日々でした。
それでも子どもにとっては、立派な先生にはなれませんでした。


先日、看護師さんとお話しているときでした。
看護師さんがおっしゃるのです。
「医者である先生も、いろいろな方がおられます。でも、私が、一番すてきだなと思う先生は、患者さんと笑顔、やさしさで向かい合える方だと思います。」
私は、これを聞いて、やはりそうなんだと納得しました。
患者として病院で診察を受けるとき、診察室に入ったときの安心感なのです。
医者がやさしく受け止めてくださるその姿勢そのものです。


学校の先生も同じです。
子どもたちが先生を見て、接して、安心できるかどうかです。
技術でもなく経験でもない「ほほ笑みからくる安心感」です。
そこに、先生として、人間としての最初の一歩があるように思えるのです。
そこに、ベテランも新任も関係ないのです。

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