教育随想 405回 「教える」に偏り、「育てる」が見えない学校
子どもを育てる最良の場所は学校です。
その学校が怪しくなってきているように思えます。
それは、学校が「子どもを育てること」にあまり重点を置かなくなっているからです。
いやいや、そうでない先生もおられるので失礼があったらお許しください。
あくまで一般的なことなのでお許しください。
コロナで学習が遅れているとは言われますが、子どもたちを育てることが遅れている、不十分になっているとは言われません。
教科指導において、「教えること」に終始しているように思えてなりません。
コロナによる休校、子どもたちを学校から遠ざけることによってどのような弊害
(学習進度以外)があったのかは検証されていません。
日常生活が変わってしまったとき、人間の在り方が問われます。
子どもたちは、社会、大人の不安の波をもろに受けました。
揺れ動いた子どもたちは、何を感じて、どのように対応したのでしょうか。
子どもたちは、生まれつきの能力、性格、家庭環境、身についた習慣で子どもの優劣が決定されています。(それだけではないですが)
学校の役割は、それぞれの家庭環境、地域環境に影響を受けたものを、学校生活によって少しでも是正することにあります。
今では、どの学校も休校期間の学習内容についてはほとんど問題になりません。
私の関わっている学校では、それぞれの教科進度が1カ月も早くなっています。
コロナがいつ再拡大するかわからないので、早めに進んでいるということでした。
あくまで、「教科書のページが進んだ」にすぎません。
先日、その学校に指導主事が訪問されて言われたことが面白いです。
「学習の進度がどの学校も早いので、少し調整してください。」
主事が進度のみを取り上げて、その学習の方法や定着、そして、抜け落ちている学習については言及されなかったそうだす。
まして、子どもたちの心の成長の遅れ、弊害については指導がなかったということです。
「教える」と「育てる」の間で、明らかに「教える」に偏っているように思われます。
何か事件(事故、いじめ等)が起きたときだけ、「心の教育」という曖昧な言葉で教育における指導を濁しています。